死んだらええねん……
                           [生きていてもいいですか 〜中島みゆき]

   自分の周辺で良く聞かれる冗談口に「あんた、死んだらええねん!」というのがある。
   東京を中心として、関西以外の地に住む人間で、関西という土地が嫌いだという人間は多い。特に、大阪が嫌われる場合が多く、その最大の理由として、所謂「大阪弁」のきたなさ、というか「えげつなさ」が挙げられる。
   京都と大阪は交通の連絡が割りに良く、そのためか、一口に関西弁といっても、京都弁と大阪弁とではかなり違う筈なのだが、実際は殆んど完全に混じりあってしまっていて、上記した言葉など、そのニュアンスから発祥の地は大阪であろうが、使う人間に京・大阪の別はない。
   さて、このアルバムであるが、確かに今までの延長線上に位置しているとは云える。然し、ここへ来て、中島みゆきという人間そのものに対しての好き嫌いは、恐ろしくハッキリと別れそうだ。一言でいってしまうと、重すぎるのだ。例えば、A面4曲目の「蕎麦屋」。彼女一人の弾き語りであり、形式的には「おまえの家」などに近いが、ここに見られる雰囲気の暗さというか、やりきれなさは耐え難い程である。精神的な落ち込み様の大きさと、それに対する救いのない事が、目を覆いたくなるぐらい、前面に出てきている。純粋培養されたマイナーさとでも云うか、A−1「うらみ・ます」、A−4「蕎麦屋」、それにB面が全部、暗く、重苦しく、居たたまれない程に沈んでいる。一体、このアルバムに対するコンセプトの持って行き方は、彼女に何があったというのだろうか。いや、なぜ彼女はこんなアルバムを作らねばならなかったのだろう?
   引き出されたアルバムタイトルは、B−3「エレーン」に見える。
    エレーン   生きていてもいいですかと誰も問いたい
    エレーン   その答えを誰もが知っているから 誰も問えない
  …本当に誰でもそう問いたいのか? それを問う事によって、上記した「死んだらええねん…」という答えを聞きたい者だけが、それを問いたいのではないか? とすれば、誰もがそう問いたいのだと信じたい時とは、…云うまでもなく、自分がそれを問いたい時、つまりは冗談抜きで「死んだらええねん…」と云われたい時、即ち、死んでしまいたい時だ。
  ここで、自分の視点は一転して己れの身辺に向かう。自分の立っている場所が、自分の居られる場所ではないと思いなした人間は、最早、死ぬ事もならない。自分という存在そのものを抹消してしまわねば、問題は解決しないのだ。ここまで徹底した落ち込み方は、今迄に見た事がない。「死にさえも絶望してしまった人間」に対して、救いの手を差し伸べる事の出来るものが、この世にあるか?… (B−4「異国」)
   ここで奇妙なパラドックスが生じてくる。そんな人間に対して、「死んだらええねん…」といってやる事が、相手に死ぬだけの「資格」がある事を認めてやる事になる。「…ここで、おまえ、死んだっていいんだよ… 」と、そういってやる事は、そんな人間に対する、最大限の好意に他ならない。
   だから、「生きていてもいいですか?」という問いに対しては、絶対に大阪弁の「死んだらええねん!」である。相手にそんな問いをさせるほど、その相手を追いつめていった「何か」に対する最大級の怒りをこめて…

  (1980.4.18)