「訳のわからない危惧」

   「ヤマト」と「ガンダム」をリアルタイムで潜り抜けて来た自分のような人間にとって、現在の「エヴァンゲリオン」のブームはいささか奇異に映る。というか、何も騒がねばならない事は起こっておるまいに、というのが率直な感想なのだ。昔は情報伝達の群速度が低かったから、今の世で「ヤマト」や「ガンダム」が出てくれば同程度の社会現象は引き起こすだろう。そうではなくて、ブームに隠れて妙な事態が進行している。所謂マニア、アニメおたくとコスプレイヤー以外の人間がこの作品にとりつかれている。おたくの裾野が広がったのだという解説も見たが、冗談ではない。例の宮崎某がそうであったように、おたくというのは自分の愛好・執着する対象を一人占めしたがるものなのである。おたくに限らず収集癖のある人間は多かれ少なかれそうした傾向を有する。更に自分の関心が何処に向いているのかを知られたがらない、という指摘もある。それがこいつらは声高にこの作品を言挙げし、自分が共感出来る相手とこの作品について喋くり合い、挙句、自分等の仲間を増やそうとしやがるのである。一体何なのだ。
 という訳で、TV版の再放送を一生懸命追いかけているのだが、確かに作品としては良く出来ている。俺など古い人間だから、カメラワークやプロットのつなぎ方が昔の日本映画、それもATG「青春の蹉跌」とか、或いは鈴木清順「陽炎座」「ツィゴイネルワイゼン」、更にいえば(ここまでいっていいか?)「8月の濡れた砂」あたりまで連想させられたが。で、しばらく忘れていたこの手の作品の見方(後述)を思い出してくるにつけ、上述した事柄と考え合せてフム…と首をひねってしまったのだった。
  この作品、難解だということになっているらしいが、何故だろう? この手の「難解さ」というと決まって引き合いに出される「2001年−」であるが、比較の仕様がない。はっきりいって、これは難解な作品では決してない。何といっても「伏線と謎解き」を描いてみせる作品ではないのだ。つまり「謎」即ち「伏線」ではない、実はそれは「基本設定」なのだ。「これこれの基本設定の基で展開される世界」を描いて行く作品なのであって、つまり主題に対して基本設定はさして重要ではない(当たり前だが)。この「基本設定」がいささか問題なのだ。タイトルの「エヴァンゲリオン」(福音)から始まって、ちりばめられたキーワードは「シト(使徒?)」だの「死海文書」だの「ロンギヌスの槍」だのと、尽く聖書関係なのである。それが謎だ、といったらナンセンス。聖書にまつわる事物はそれ自体が壮大な謎で、この作品はそれを「基本設定」即ち「下敷き」にしているだけなのである。それがわかっていれば、逆にひどく明快な世界と映る。(少なくとも俺の目には)次に「謎に満ちたストーリー」などといって、ストーリー進行自体が謎のような取られ方をしているが、実はストーリーそのものがろくに無い。連続して呈示されるプロットがストーリーのような見せかけを保っているだけで、実は何も進行していない。つまりそれは、何らかの「日常」を描く場合に用いられる手法である。
   そうなのだ、たとえどんなにとんでもない状況下であろうとも、ここで描かれているのは、中学生・碇シンジの「日常」である。同級生としての綾波レイや惣流・アスカ・ラングレーという「存在」は背景である。(こいつらもまた、「存在」としてとんでもないのだが)ここで特筆すべきは、これはよくある「少年の成長する物語」になっていない、という点である。えてして忘れられがちだが、中学生ぐらいの「少年」にとって「日常」とは、成長どころの話ではない。まさに「疾風怒濤」の中でもみくちゃにされる毎日なのである。(それに自覚的であるかどうか、は全く別の次元の話だ)そこのところは、実際うまく描写されている、主人公・碇シンジがとんでもない「日常」にもみくちゃにされていく様子が。(その分、成績とか進学とか現実に存在する中学生の「日常」からは隔絶されている訳だ)この辺何というか象徴的であるのは「人間として未完成な中学生」を主人公に持ってきて「存在として中途半端な人間という生き物」を描写している点である。そういえば、この物語の登場人物はどいつもこいつも中途半端だ。というよりも(当たり前な事だが)そういう風には描写されていない。物語の展開上必要なキャラクターしか付与されていないのだ。エヴァのナビゲーション・スタッフなどはその最たるもので、そもそも勤務時間外というものが存在しているのか、想像するのも難しい。勿論、初めからそうだった訳ではあるまい。物語の進行上、描写されずに済まされてきて、最早そんなものどっかに行ってしまったというのが正解に違いない。挙句の果てが、「退場するためだけの渚カオル君の登場」と「最終2話の大逆上」という事になる。この流れは或る程度当然とも言えるし、またそうでないとも言えるだろう。つまりここには明らかに「そうであってそうでないもの」がある。
  作り手の話なのだ。「かきたかったが、かけなかった」のか、「かきたくなかったから、かかなかった」のか、或いは「かかれるべきことが、かかれざるべきことであった」のか(何を書いてるのか良くわからなくなってきた)、とにかく最終2話に至って劇場公開版というか続編というか、早い話が「落とし前」(?)をつけざるを得ない事態に自らを追い込む過程がその中に見える。勿論、そこで何をかくつもりなのかは知らぬが。ここまでの経緯から見て、どう考えても当初からこの進展が意図されていた筈はない。描写の力点が事象から心象に移行していったその訳と、作品上に現れたあからさまな「転進」と。それは多分ストーリーとしてだけの問題ではあるまい。
 ここに於いて、何をさて置いても指摘しておかなくてはならないのは「人類補完計画とは欺瞞である」という一事である。但し、誰に依る誰に対してのものか、という点に関しては解釈が余りに幾通りも考えられ、これだと断じる事は到底不可能なのだが(勿論、「製作者」に依る「受け手」に対しての、という最もありそうな解答も含めて)。大体有り得た訳がないのである。物語の背後で進行しているのが或る種の「破滅」だとして、それへの対処としては、そのものの「阻止」乃至「回避」、或いは起こってしまった後の「再生」ぐらいしか選択肢は存在せず、ニュアンス的に「補完」ではどれとも合致し得ない。(「保管」ならばまだ意味が取れる)大体が、人類の未完成さは補って成りたるものではあるまい。如何にしてか、レベルの飛躍が求められる筈だ。従って「人類補完計画」とは、以下のようなものであらねばならない。
  「人類」が「人類以外」のものにとって変わられない為に「人類以上」のものにならねばならないとしたら、それは「人類」が自ずから「人類以外」のものになってしまう事であり、そこでなお「人類」で在り続けるための計画。
   これは完全な自己撞着である。
   然るに、そんなものをゼーレが、また碇ゲンドウが企図する筈もない。同様に、25話で赤木リツコが葛城ミサトに明かした内容も嘘ということになる。(あれでは逆に内容がその位置付けを支え切れない)つまりは「隠れみの」にされているのだ。セカンド・インパクトに始まるゼーレの「陰謀」と、それに対する碇ゲンドウの「暗闘」。畢竟、死海文書に何が書かれてあろうとも、人類は何らかの「転機」に向かう事を迫られているのである。
  しかし、それにしても碇シンジ並びに惣流・アスカ・ラングレーの「情けなさ」には眼を覆わしむるものがある。何よりも、自分等が悩んだり苦しんだりしているのが実は「おこがましい」のだ、という事に気付かないというのが二重におこがましい。更に首をひねらざるを得ないのが、碇シンジに措けるその解消である。中島みゆきが1980年に「生きていてもいいですか」と唄って、生きていく自分自身とどう折り合いを付けていくかという問題が初めて世間一般の俎上にのって以来、(そうか、これこそ「残酷な天使のテーゼ」という訳だな)その認識に到達することが祝福の対象になるというTV版ラストシーンは(つまり、ああした流れで無理矢理「少年の成長する物語」ということにしてピリオドを打った訳だ)自分にとって完全に理解不能である。だって、その認識に到達した自分を受容できるかどうか、というだけの問題に過ぎないではないか…え、俺だけ?
  以上ここまでの内容を、自分は前述した再放送を見た事のみで記した。雑誌等の解説記事も目にはしていたが、それだけである。勿論劇場公開版も見ていないし、この時点で解説本の一冊に目を通して大誤解や大間違いをしていない事を確認した。それだけでここまで展開し得るのである。というか、素直に展開していくとこういう事になる。基本情報量の多さ故にこうなるのだが、三十分2クールのアニメとしてこの情報量乃至伝送効率の高さはどう考えても有り得ない。パソコンユーザーならばお手の物の「データの圧縮・解凍」がなされているのでもなければ……ついに、そこに気付いた。
 昔はビデオなどなかったから、或る作品の「見直し」など通常は考えられなかった。何度も金を払って上映館に足を運ぶなど、余程その作品に入れ込んでしまった場合を除き、そんな贅沢は許されなかった。といって、目を皿のようにしてスクリーンを凝視したところで、どうしたって「見逃し」「聞き落とし」で掴まえられない情報は増えていく。ならば、どうしたら良いのか? …で、サブリミナルまで動員してしまえ、という方法に考え至った。
   サブリミナル…「識域下」と通常訳され、最近の理論ではサブコンシャス…「潜在意識」とは明瞭に区別されている。マインド・コントロールに利用されたりとか、その実態については最近周知されつつあるのでくだくだしい説明は省くが、要するに修練で自らコントロールし活用することが可能だという事なのである。例えば…
   受容系・感覚機能を意識で制御せず、データ・エントリーとしてだぁだぁに流れ込むに任す。(そのためには機能として歪みの少ないハイ・クオリティなものが要求される)大抵は目・耳の2感を用いる。「スイッチの入った状態で」見聞きしたものが、記憶のどこかに自動的に蓄積されていく。逆に検索・リトリーブをかける際には、「目も見えず耳も聞こえない」という状態になれば自動的に記憶から展開される。但し自分が何時何処でどうやってそれらを見聞きしたかという記憶は付加されていない。勿論、データ取得中の立居振舞は全く日常と異ならず、逆にデータ再生中のそれは殆ど植物人間状態になってしまうのは止むを得ないのだが……極端な「使用例」を上げてみたが、つまりセルフ・コントロールによって表層意識の背後に一種の「バックアップ・システム」を立ち上げておけ、意識からこぼれ落ちていくものを拾い上げ、セーブしておけるのである。同時に、そちら側から意識に注意を喚起することも可能である。昔、映画を見ていた際に自らあみだした技がこれで、その結果、直後には訳のわからなかった作品が、更に潜在意識の援用も受けた解析を加えられて数時間後、或いは数日後、場合によっては数週間後になって理解・納得されることになった。(時と場所を問わず「アッ、そうだったのか!…」と突然立ち上がった事も一度ならず…)
   ……で、この作品である。一言でいって、妙だ。確かに圧縮された情報の密度は高い。サブリミナルを全開すると、連想の連鎖反応がドミノ倒しを見ているように小気味良く展開していくのが自覚できる。一種の「畳み込み」が行われているのか、例えば繰り返しが単なる繰り返しになっていない。つまりこれが、それと意識させずに大量のデータを流しこませていく仕掛けである。些細な1シーンを見ながら、頭の中で様々な記憶や想念が励起されては消えていく。とはいえ、もし実際にサブリミナル映像でも使われていようものなら、絶対にピックオフされる。その形跡はない(実は一つ、疑ってかかった部分がある。碇シンジの心象描写で、黒い柱状のものが白無地の画面を縦に分断しつつ移動していく。「如何にも」の画面であるが、サブリミナルからの反応は皆無である。多分、碇シンジの心的視野の中央部分を連続して「塗りつぶし」ている、という描写なのだろうと、今は勝手に解釈している)。が、明らかに「糸を引く」ものがある。頭の隅で何かを考えている奴がいて、しきりに教えてくれようとしているのだ。何かが何かを象徴している。何かはわからぬが、或る種の「禍禍しさ」と表現すべきものであり、それに正対した者が覚えるのは「危機感」と呼ぶのが唯一適当と思われるものである。それは「忌避感」と言い換えても良いだろう。つまり、このレベルで受け取れば「見たくもない筈のもの」である。とすれば……
   答は出た。彼らはこわいのだ。

  (本稿は平成9年初頭の再放送開始直後に書き出され、同年4月28日にとりあえず脱稿、その後本HPに向けて更に改稿されたものである)