「昨日までとは違う日…」




 朝っぱらから、彼女と路地裏を走っていた。
 「ユウタったら、ほんっとにもう〜、信じらんない!!!」お決まりの文句を口にしながら、スカートの裾を翻しつつ、走るペースは落とさない。流石、体育会系…
 「ひとが迎えに行ってやったら、ドライヤーでパンツ乾かしてるなんて〜!!」
 「しょうがねえだろ、昨日おふくろが全部洗濯しちゃったのが、今朝になっても乾いてなかったんだから…」
 「朝練があるって、わかってるじゃあないの! どーして、昨夜のうちにアイロンでもかけとかないのよ!!…」
 …なんでこいつにこんなことまで、ポンポン云われなきゃなんないんだ… 走りながら、俺は腹の中でブツブツ云った。そりゃあ確かに、小学校から家が近所で、しょっちゅう一緒に遊んできたし、それよりも何より、しょっちゅう宿題で助けてもらったのがたたって、今になってもこいつには頭が上がらない。
 それでもまあ、感謝はしてるかな?… 二人して同じ高校へ行けたのは、ほとんど100%こいつのおかげといっても間違いじゃない。となり町の高校まで、電車で30分… 駅へと続く住宅街の小路をカバン片手に俺たちは走りつづけた。

 「駅への近道」に曲がりかけたのは彼女だった。
 「あ… そっち、行っちゃう?」
 振り返った彼女の表情が一瞬チラと動いた。
 「…そんなこと、いってらんないでしょ!
 電車1本遅れたら、完全に遅刻なんだから…」
 それはそーだが… 角を曲がって急に人影が増えた。この先ざっと300メートル、駅のほとんどすぐ近くまで続くこの一角は、十数軒のラブホテルが軒を連ねる、所謂「ホテル街」なのである。そして当然、朝のこの時間帯は「お泊り」したカップルがチラホラと出てくる時間帯でもある訳で…
 前を行く、いかにも「サラリーマンとOL」といった感じの「ありがち」カップルの横をすり抜け、着てるものがミョーに派手な「プータロとイケイケ」カップルを追い越した時、隣のホテルのガラス戸が開いて「どう見ても俺等と同年代」と見えるカップルが寄り添って出てきた。両側に別れてその傍らを走り抜けようとした俺と彼女が、何かに気付いて立ち止まった。俺たちはゆっくりと振り返った。
 「ケイコ!」
 「学…」
 一瞬、キョトンとこちらを見やった男女二人… うちのクラスの委員長と副委員長だった。

 「…ありゃ…ミョーなとこで、会っちゃったな…」
 「おまえらなー…」
 多少はドギマギしながら、俺は目の前の二人をまじまじと見やった。どちらかといえばまぁ「いい男」の側には入るが、生まれつきだろう性格が「のんびりおっとり」の典型で、だから「委員長」なんかやらされてる学と…。「メガネに三つ編み」がこの上なくサマになってる、面倒見の良いクラスの「お母さん」役…「副委員長」のケイコ。この二人が…「出来てた」だとぉ〜!
 「やだ、あなたたち…そーだったの〜?」
 軽く握ったこぶしを口にあてて、やや引き気味の感想に、
 「シズエ〜…」
 普段、教室ではまず聞いたことも無い「副委員長」の声が彼女に届いた。
 「お願い。ちょっとだけ、みんなには黙っていて…」
 言われた彼女よりも、多分俺の方が驚いていた。メガネの下でややうるんだ瞳と、心なしかのハスキーボイスは、どっちも寝不足気味のせい? そうだとしても…「副委員長」って、こんなに色っぽかったっけ?!…彼女にも、それは伝わったのだろう。やや鼻白んだように、
 「…わかったわよ。今朝は急いでるから…今度、おごりなさいよね〜っ…」
 言うなり、背中を向けて走り出す。後を追って、走り出しかけた俺に「委員長」が、
 「…僕の方も、いわないでおいてもらえると助かる。来週から中間だし…」
 (それがわかってて、おまえら何やってんだよ〜…)
 文句は口の中に止め、軽く頷いてみせただけで俺も走り出した。

 彼女には、改札口で追いついた。階段を上ってホームに出る。ホームの人影はまだまばらで、程なくやってきた電車の車内もガラガラだった。
 誰もいないロングシートの真ん中に、二人並んで腰を下ろした。前を向いたまま、たっぷり数分間は無言の後…
 「飛んでもないもの、見ちゃったわね…」
 彼女の声に、俺は何故かビクッとした。
 「…あ、あぁ…」
 「ケイコの奴、あとでとっちめてやるわ…」
 彼女の声が、どこか「上の空」であることに、その時の俺は気付かなかった。

 「朝練」といったら、とりあえずは走る。ウォーミングアップを兼ねてトラックを軽く流し、念入りに柔軟をこなしてから、50mダッシュを数本… いくらか息が上がってきたところで、俺達は「声出し」に入った。
 「あっ…あっ…あっ…あっ…あ〜〜〜〜〜………っ」
 「あっえっいっうっえっおっあっお〜…っ」
 …勘違いした人、いるでしょ?… 俺達は「放研」…放送研究会である。体育会「系」とはいったが、「体育会」とは、いってないだろ?…昔々、まだ「声優」というジャンルが確立されていなかった頃、(つまり、勿論、当時、ラジオの)「放送劇」の役者といえば、「アナウンサー」だったのだ。…これが「時代」とゆーもんだろーね、「アナウンサー」といえば「渡された原稿をキレイに読み上げるだけ」ではなくて、当時は「役者」であることも要求されたのだ。それが何時の間にか、「キャスター」という名で、自分で取材し原稿を書いて読み上げる「記者」としての側面も要求されるようになってくる。まー、それがそーゆー「いま」だからといって、「アナウンサー」が「役者」出来なくて良い訳にはならないだろ?… そんでもって、当研究会としては「アナウンサー」に「オールマイティ」を要求する。以上、代々の部長からの受け売り…「朝練」は従って、これは「当然の帰結」であった。
 現・部長の「…ハーイ、今朝はそろそろ上がるぞ〜…」の声が聞こえるまで、先刻の出来事は忘れていられた。

 部室に戻ると、当番の部員による「朝の放送」が始まっていた。
 「…皆さん、おはようございます。10月x日、朝の放送の時間です…」
 今朝のアナウンサーは、一学年下のヨーコだった。「金魚鉢(アナブース)」の中から、戻ってきた俺達に気付いて軽く会釈する。片手を挙げて応えてみせた時、BGMが軽快なリズムを奏ではじめた。
 「…それでは今朝の一曲です。去年の今頃、流行りましたね、ノーザンライツの‘ウィンド・オブ・モーニング’…」
 全校中に爽やかなメロディが流れ出したその時、不意に部室のドアが開いた。
 「あ、ケイコ…」
 副委員長だった。手にしたメモを俺に差し出し、
 「生徒会からのお知らせをお願いします。それじゃよろしくね…」
 無造作にそれだけ告げて、部室を出て行く。俺の背後にいた彼女が、俺の手からそのメモを抜き取ると、すぐさまそれを「金魚鉢」のヨーコに手渡した。…やがて、曲が終わり、
 「…生徒会からのお知らせです。各クラスの文化祭実行委員は、放課後、生徒会室に集合して下さい。繰り返します。各クラスの…」

 間も無く1限目が始まる。部室を出た俺と彼女は、教室へ続く渡り廊下を歩いていた。
 …今しがた、副委員長の顔を見てしまったことで、現実が立ち戻ってきていた。この後、教室であの二人に顔を合わせた時、どう振る舞えば良いのだろう?… 冷静になって考えてみれば、そんなこと全然気にすることじゃない、いや「気にしちゃまずい」んだってことにまで、頭が回らなくなっていた。だもんで、数歩先を歩いていた彼女が不意に立ち止まり、こちらを振り返ったのにも気付かなかった。ぶつかりそうになって、あわてて、
 「…何?」
 「あなたも!」
 ピンと人差し指の先が真っ直ぐ俺の鼻先にきていた。
 「…黙ってなさいよ、ユウタ。ウワサの出所には、なりたくないの…」
 気持ち上目使いに告げる彼女に、突き付けられた人差し指を手の平で横に向けながら、
 「…わかってるよ」
 応えると、彼女は急に顔を赤らめ、うつむき加減にボソボソと、
 「…わかってたらいいのよ…」
 その突然の変化に、俺は内心首をかしげたが、彼女はそのままクルリと背を向け、いきなり足早に歩き始めた。頭上に、確実に「?」マークをのせた俺が、その後を追った。

 今朝の出来事よりも、先前の彼女の素振りの方が気になって、その日の授業はかなり上の空だった。結構長いつきあいになるが、あんなあいつは今までに見たことが無い。あいつ… 一体どうしちゃったんだ?
 放課前のHR直後、「委員長」の学が俺の所にやってきた。
 「正式に“口止め”、お願いしとこうと思ってさ。コーヒーの一杯ぐらいおごるけど…どうだい?」
 「どうだいって…今日は文化祭実行委員会じゃなかったのか? 今朝、ケイコに“お知らせ”持ってこさせたじゃないか…」
 「あ…そーだった。じゃあ、その後で…」
 「…終わるまで待ってろってか? いいよ、パスしとく。それより…いつからなんだ?」
 微苦笑して、学は鼻の脇を人差し指でポリポリと掻いてみせた。
 「1学期末の試験休み中に、ちょこっと…あってね」
 「ふーん…」
 「君の方は?…どーなってるの?」
 「え?」
 一瞬、何をいわれたのかわからなかった。
 「いや、水口サンとさ…」
 「あいつと、か?!」
 “水口”は、彼女の苗字である。俺は思わず笑い出した。
 「…さては知らなかったのか。あいつとは小学校からの“腐れ縁”だよ。それでもってあのへんは、昔から俺らの縄張りでさ…」
 「あ、そーだったの?…」
 そこへケイコ…「副委員長」もやってきた。
 「…今日の打ち合わせ資料、コピー取って生徒会室に置いてきたわ…」
 「あ、ありがと… 今聞いたら、やっぱり水口サンとは何もないんだってさ…」
 「あら、やっぱりそーなの…ねえ?」
 ケイコ、不意に俺に向き直った。
 「シズエのこと、もっとちゃんと見てあげて。“幼な馴染”だからって、女の子はいつまでもそうじゃいられないのよ…」
 何をいわれたのか、今度はわかった…そのかわり、何をどう答えればいいのかわからなかった。それじゃね…「二人」が肩を並べて教室を出て行くのを見やってから、俺は首を巡らせて彼女を探した。
 教室に彼女の姿は既になかった。

 勿論、彼女のケータイは知っている。だが…何故か、かけるのは躊躇われた。
 部室にも行ってみたが、彼女、今日は来ていない…という。
 「そうか…それじゃ、どうしようかな?…」
 「何か用事あるの?…それとも、今日はこの後ヒマ?…」
 尋ねたのは隣のクラスの「編成部長」だった。
 「いや、ヒマといえばヒマ…なんだけど」
 「BG用の素材、探してたら…ブロードバンドの試聴版に“Z−TRANS”の新譜が来てたぜ…」
 「ホント?!…」
 “Z−TRANS”といえば、高速シンセのリズムとグルーブで、俺が今一番入れ込んでいる音だ。MDに落として持って帰りたいとこだが、その前にやはり部室のBOSEで大音量で聞いてみたい。
 …しばらく、俺は「トリップ」することにした。

 結構「アドレナリン・ハイ」になった俺が部室を出たのは、もう夕刻だった。
 …今度のは絶対「買い」だな…頭の中で今しがた聞いた音を反芻しつつ、ポケットのダビングしたMDにニヤニヤしながら、俺は近道の校庭を抜けて裏門から校外に出た。折角気分が良いんだから、駅前商店街のザワザワを潜って行きたくなかったのだ。点りはじめた街路灯もまばらな駅への裏道を辿り、一つきりの改札を通ってホームへ降りる。
 ホームはかなり混んでいた。この時間になると、学生もウチばかりじゃないし、それよりも勤め帰りの会社員の方が多い。ホーム半ばへと歩を進めていた俺の足が急に止まった。
 彼女がいた。

 「あ…」先に気付いたのは彼女の方だった。
 一瞬、数メートルを隔てて二人向かい合う。何気に視線を外した彼女にかまわず、俺は無造作に歩み寄り、彼女と並んで立った。、
 「何処に居てたの?…」
 「え?…あ、あたし? ん、図書館に行ってたの…」
 彼女、何故か焦ってカミかけた。俺の方はその答えに「云おうと思っていた事」を忘れた。
 「あれ? なんか宿題とか出てたっけな…」
 「…何すっとぼけたこと云ってるのよ、ユウタ…」
 彼女はすばやく手帳を広げ、
 「…数学の応用問題集。問83から88.提出は明日よ」
 「おおっ、サンキュー…って、後で見せてくれるんだろ?」
 「え、えぇ…」
 彼女がいいかけた時、電車が着いた。
 …既に9割がた満杯の車内に、突っ込まれるように俺達は乗りこんだ。ごく自然に彼女をガードしてやろうとしたら…気がつくと俺達は向かい合わせにピッタリと密着して…ほとんど抱きしめ合うような格好になってしまっていた。
 俺の胸の下あたりで彼女の胸がやわらかくつぶれていた。今日がはじめてという訳じゃない、通学の行き帰りに何度かこんな格好になり、こいつの胸の発育の良さは確認ずみだったが…今日は何故かそれが妙に意識された。で、…
 不意に気付いた。(トクン、トクン、トクン…)伝わってくる、自分のものでない心臓の鼓動…
 反射的に、そろ…っと下を見てしまう。と…俺の目に飛びこんできた彼女は「目を閉じていた」。思わず(ドキッ…)とした。見慣れてる筈のこいつの顔が、何故か「全然知らない女の子」に見えてしまったのだ。その時、彼女がやや顔を上げ、それまで俺の目からは見えなかった唇が見えた。力を入れず、軽く閉じられた唇が… 俺がそれに見とれてしまった一瞬!…
 彼女が目を開けた。至近距離で視線が絡み合った…のに気付いて、俺がうろたえかけた一瞬!…
 彼女の視線が緩んだ。ささやくように、「ユウタ、あのさ…」
 俺の耳に届いた彼女の声が、俺を現実に引き戻した。
 「…なんか、当たってるんだけど…」

 自分の分身の変化に、今更ながら気付いた。(やべっ…)とか思ってみても、もう止められるものではない。彼女の下腹部に当たったままのものはなおも明確な自己を主張し続けた。
 乱れそうな呼吸を、必死に収めようとしていると、
 「ふう…」一つ息を吐いて、彼女が再び目を閉じてしまった。やや仰のいた顔はそのままに、その頬がうっすらと赤みを帯びて…。それはまるで、口付けを待ち受けている時のように見えた。…ますます、やばい。
 …途中の駅が近づいて、列車は速度を落とし…やがて停車した。周囲に下りる乗客はいないらしく、その代わり更に乗りこんでくる客のために、俺達の密着の度合いは更に上がった。その時、俺は自分の一部が彼女の何処に当たっているのか気付いた。
 それは彼女の手の平だったのだ。というか…彼女の手の平に、俺のものはスッポリと包み込まれていた。(うわ…)俺の心臓は、殆んど跳ね上がりかけていた。彼女にもそれは伝わっていたのだろう、目を閉じたまま、消えそうな声で、
 「…ゴメンね…よけようとしたら…この手どっちにも…動かせないのよ…」
 その声に…俺の心臓はもう一段ギアが入った。ひょっとして、こいつも感じてるのか?… 伏せられた睫毛が微かに震えているのを見てしまい、もう俺は視線をそこから外せなくなった。このままの状態が続いたら…
 (頼むから…その目を開けてくれよ…)勿論、声には出せない。
 列車の振動に彼女の指が無意識にピクッとする度(そりゃそうだ、手の内にあるのは「つかまるのに頃合いな棒」なのだから…)その動きが全身に拡大されて伝わるみたいで…その感覚に俺の背筋はすでに硬直していた。(う、うおぉ…ダメだって…そんなに動かしたりしちゃ…)
 何時の間にか、俺の心中は二つに引き裂かれていた。早く二人の降りる駅に着いて、この状態から解放されたい思いと、…そしてこの状態がいつまでも続けば良いと願う思いに…。だから、「次は、和泉ヶ丘〜」という車内放送のアナウンスに、張り詰めていた緊張が一瞬緩んだ。
 その瞬間、彼女が目を開け、俺の視線の真中で、上気した表情のまま何故か「ニッ…」と微笑んだ。それは思いがけない、最後の不意打ちだった。
 「お、おぉっ…」思わず意識がどこかにすっ飛び、同時にビクビクッ…と、俺は××してしまっていた。「あ、何?…」手の平が伝えてくる感覚に、何が起こったのかわからずうろたえる彼女… 俺は、彼女の頭の上に顔を伏せたまま、必死に奥歯を噛み締めていた。…幸い、周囲には気づかれなかった。
 …列車が着いた。いつのまにか彼女が俺の腕をつかまえている。その顔はもう真っ赤だ。自分が何をしてしまったか、悟ったらしい。股間に気を使いながら、俺はそろそろと列車を降りた。
 「大丈夫?…」「んー…」
 俺達は肩を並べて駅を出た。まとわりつく股間の感触に、どうしても足が遅くなる俺にペースを合わせながら、
 「…ねえ?」
 「何?…」
 「私で…感じてくれたの?…」
 俺は驚いて彼女を見た。確かに…そこにいたのは、昨日までの「彼女」ではなかった。
 「あぁ…一人でするより、ずうっと感じたさ…」
 「やだ。でも…だったら、嬉しいな…」
 俺はもう一度、彼女を見た。その微笑みは、間違い無く色っぽかった。
 …「近道」への曲がり角を、二人は自然に折れた。俺の肩に、その身体をすっと寄せながら、彼女は尋ねた。「寄り道して…行くの?」

 [終]