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「理科の教育課程」を考える


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2011年 9月
☆ 家族と夏休みの宿題 〜「考える」ということ〜
 夏休みのある日,外食をしていたときのことです。近くの席で,知り合いの家族が集まって食事をしていました。賑やかなお話が続いていましたが,そのうち「小学校5年生の子の宿題が解けない。」という話題になってきました。ちょっと気になったので聞いていると,次のような内容でした。

 


 つまようじで右のような図を作りました。

  このうち二本だけを動かして,同じ大きさの正方形を4つにしなさい。

 この問題を見て,そこに居合わせた大人たちが「ああでもない。こうでもない。」と考えていました。
 でも,なかなか解けません。そのうちに「2本取ればいい。」とか「大きさが違えばできる。」とかいった言葉が出てきました。挙げ句の果てには「これは問題がおかしい。」「こんなもの解けるはずがない。」と問題そのものの妥当性さえ,疑い始めました。中には「小学校の宿題でこんなクイズみたいな問題を出すのはおかしい。」などといった言葉も出ていました。

 そのうちに一人の人が「正方形を4つ作るには16の辺がいる。
 そのとき,共通する辺があってはいけない。この場合つまようじが16あるから,できるはずがない。」と言い出しました。
下のような図になります。



なるほど,そのとおりです。
「解けない。」という意見の中ではもっとも理論的です。
みんな納得して「この問題は解けない。」と結論づけていました。
しかし,気になったので家に帰ってから,ネットで調べました。
すると,ありました!確かに解けます!

「共通する辺があってはいけない。」がポイントでした。
 では,これが入学試験算数の問題だとしたらどうなるでしょう。
先ほどの人のいう「正方形を4つ作るには16の辺がいる。そのとき,共通する辺があってはいけない。この場合つまようじが16あるから,・・・。」が算数的にはいい発想です。きっとこの人は「正方形を4つ作るには16の辺がいる。つまようじが16あるから,4つの正方形が共通する辺を持たないようにすればよい。」と考え,問題が解けると思いました。
 同じ問題でも「クイズ」として出題する時と「入試問題」として出題する時とでは,取り組みが違ってきます。問題への信頼性と「解くんだ。」という強い意志が大切ということでしょうか。(答えは載せないので、是非考えてください。)
 それにしてもネットはすごいですね。こんな問題まで検索できるんですから。でも,初めから考えることをやめ,安易にネットに頼ったり,「ネットは正しい。」と信じこんでしまったりしては問題でしょう。
 いずれにしても,小学校の夏休みの宿題が,集団の話題として活躍していることに楽しくなりました。時が過ぎて時代が変わっても,甲子園の高校野球とともに夏の風物詩になっているようです。


2011年 1月

日曜日の朝、CBCのサンデーモーニングを見ていたら、「戦後日本は3つの目標@平等、A自由、B豊かさ、を立てた。(平和が抜けている)それは今かなり達成されたと思われる。」という内容の話がありました。確かにそうかもしれません。(そのあと、このことの弊害が指摘されましたが間違いがあるかもしれないので紹介しません。)そんな時、地元の、私より少し年配の方が、「今の若い人は欲しいものがないんですよね。目標がないんです。ある意味かわいそうですよ。」と言われたのが、テレビの内容と共通しているような気がしました。そこで職場の同年代の人に「今なんか欲しいものある?」と聞いてみました。「そうねエ。○○かなあ。」「でもそれ買えるよね。」「確かに!」「私たちが子どもの頃、《いつか自動車を買うんだ。》とか思ったよね。」「そうだよ。今の貧しい人よりずーっと貧しかったもんね。今なんか食べ物だって毎日が盆や正月だよね。」
  巷では「頑張らなくてもいいんだよ。」「そのままの君でいいんだよ。」という教育が氾濫しています。なにか頑張ることやみんなと同じこと、同じレベルを目指すことが無意味であるかのような雰囲気さえあります。戦後3つの目標に向かって走り続けた人には当てはまるかもしれませんが、今の子どもたちに当てはまる言葉かどうかは検討の余地があるように思います。これからの若者にどんな目標を立てさせたらいいのか、本当に難しいですね。
 学校教育は集団教育です。個人授業ではありません。ですから、学校教育の重要な部分は他人と自分との関わりを教えることといっても過言ではありません。人間は一人では生きていけませんから、当然、人との関わりが重要になってきます。そのことに関して今から何十年も前に名大付属高校のある先生がエスーマンの言葉を紹介してくれました。今でも時々その言葉を思い出しながら教員をしています。あと1年の教員生活をこの言葉を胸に刻みながら過ごしていきたいと思っています。
 「大勢に混じってその意見に従って生きるのはたやすく、大勢の中で自分だけの道を進むのもさほど難しくはない。しかし、大勢の中で快く自分らしさを出せる人こそ本当に人間らしい人間である。」
2010年 1月
 
成人式に行ってきました。成人式は小学校区か中学校区で行うのが一般的ですが、昭和区は全区が公会堂で行われます。昨年の内に昭和区役所から案内状が届いたのですが、昭和区全部というと何か行きづらかったので返事は出しませんでした。でも、卒業生の一人から電話がかかってきたこともあって思い切って行くことにしました。初めは全然あえなくて「しまったなあ。連絡しておけば良かった。」と思いましたが、そのうち一人のお母さんに会いました。娘である本人は全然分かりませんでしたが、そのうちみんなが集まってきてやっと昔のバージョンになってきました。こういっては何ですが、やっぱり町中なのか、全部の新成人が来るためか華やかでしたね。近況を聞いていると、大学へ行ったり、様々な人生の歩みが聞けました。結構みんなすてきな若者でした。

2009年 4月
 
たった3年で戸田小学校を変わりました。戸田小学校はとても良い学校だったのですが,家庭の事情でどうしても家に近い学校に変わりたかったのです。しかし,距離的には多少近くなったものの,希望するほど短縮されたわけではありません。挙げ句の果て,バスが「1時間に1本」というのも同じでした。しょうがないので環境負荷が大きくなりますが車通勤にすることにしました。そういえば,高速道路の割引も始まったし,燃料代も安くなったし,環境よりも車を使いましょうと言うことかもしれません。さすがに庄内川の中だけあって,車の威力は凄かったです。という訳で本来の「家から近い」条件を自らの工夫で成し遂げました。
 さて,この学校では何をしようか,ということですが,今までの集大成として「科学遊び,科学工作」に特化して見ようと思っています。「あれもこれも言われたことは一生懸命やった」と言うことではなく,「こんな理科の授業もあるんだ。」ということが見えるように工夫していきたいと思っています。

2009年度
 私が卒業した大学の同窓会名古屋支部で「支部だより」という新聞があります。かつては私もこの編集にも携わっていたので中身はよく知っています。「マンネリ」,「出すことが目的」という雰囲気です。その中に一般会員を紹介する「プロフィール」という項目があります。顔写真,卒業年,生年月日,歴任校,趣味,信条が簡単に紹介されています。団塊の世代が多いのでやっと今回自分に廻ってきました。「少し風穴を開けてやろう。」と思いましたので,顔写真は免許証じゃないんだから自分として一番主張したい理科の実験をしている姿にしました。そして,他の項目は全部抜きにして信条のみにしました。すると「写真はトリミングをして顔だけにして下さい。」「生年月日は入れて下さい。」と要望がありました。全体の字数が少ないので,そんなことをしたら私の意図が通りません。そこで「このまま出して下さい。いやならボツで結構です。」と連絡をしました。その後連絡がなかったので「どうなったのかなあ。」と思っていたら写真と共に「てんやわんやでした。1つ仕事が増えました。」という手紙が返ってきました。「なんだ。ボツにしたのか。アメリカと違って日本は変化を求めないし,成果を上げるよりもミスをしないことが大切なんだな。」と思いました。