天正年間(1580年代)に、伊勢の参宮道者によってもたらされたという踊りが
山紫水明の郡上の里で、さまざまな変遷をたどりながら、
その風土にあったものとして磨きあげられてきたものである。
現在、国の無形文化財に指定されているなかの
「古調かわさき」は、輪踊りで時計の針の坂回りであり、
その手振りや足の踏み方などを見ても、
昔の農耕の所作が取り入れられており、
歌詞も飾り気のない庶民生活に根ざしたものや、
作業歌が残されていて、
いかにも奥美濃の純朴な人情・風俗に似つかわしい踊りである。
今日、郡上おどりの代表的なされている「かわさき」は、
大正3年(1914)に開かれた共進会に上演するため、
戸塚鐐助氏が郡上之曲「花のみよしの」を作詞され、
その節付けは杵屋六満左氏に、また花のみよしのの踊りのなかに、
古調かわさきの動きを取り入れた、
新かわさきの振り付けを西川倉寿氏が担当されたのである。
大正11年に郡上おどり保存会が結成されて、
この新「かわさき」を世に出そうと尽力され、その後、
歌詞は卑猥なものを改めるために一般から募集して、曲も新しくととのえられた。
この上品な歌詞や落ち着きのある曲、
あるいはリズム感にあふれる踊りは、全国民謡大会においても、
健全な大衆娯楽であるとして推奨され、
各地の盆踊りにも取り入れられて盛大に催されている。
郡上の宝暦騒動は、前後5年にも及んで、
駕籠訴や箱訴をおこなうまでに進展した。
その結果、百姓一揆の主だった者は処刑され、
城主の金森家も改易されるに至った。
その後を受けて、郡上・越前のうち四万八千石を給せられた青山幸道は、
こうした物情騒然たる藩内の情勢を警戒し、
政治対策には一段と腐心したようである。
宝暦9年(1759)6月、丹後の宮津から入部に際して、
供の者の長途の労をねぎらい、
また藩内から出迎えた者にもその志をめでて、
三百文づつあたえたといわれる。
それに感激した里人たちが、湧きおこる声とともに欣喜雀躍して、
そのころに踊られていた地踊りを思わず披露におよんだといい、
その踊り姿が「三百」とよばれるようになったのである。
八幡城の領主遠藤慶隆は、天正年間(1582年頃)
郡内の馬を城下に集めたといわれている。
それは畜産奨励の意味と戦国の余麈がただよっていたので、
軍馬徴発の必要性があったからであろう。
毛付市(徴馬の制)は、毎年土用入り後7日目(7月27、28日頃)に、
八幡城一之門前の芝野で検査を受け、
一定の基準に合格した馬は、その印としてたてがみの一部を刈とって門内に入れ
さらにその中から所要の軍馬頭数を徴発した。
徴収される馬には高価な代償を与えて、
馬の飼育を奨励したという。
また挑発もれとなった馬は、翌日からの馬市場で売買され、
たてがみ落しの馬は特に高値を呼んだ。
この毛付市へは他領から入ってくる者も数多く、
相当なにぎわいであったことが想像される。
この毛付駒に鞭打って走る勇ましい姿が、
威勢のよい踊りの動きとなったものであり、
宇治川の先陣争いの名馬磨墨以来、
馬にゆかりのふかい郡上の地にふさわしい、
活気あふれた、”郡上マンボ”ともいう踊りである。
郡上地方の農家では田畑が少ないので、
古くから養蚕が副業の第一として盛んに行われてきた。
昔から伊勢神宮の装束を織る糸には、主として郡上の生糸が用いられたと言う。
平安時代からの「延年舞い」で有名な、白山長滝神社における豊蚕祈願祭は、
養蚕農家の信仰をあつめ、豊作のために長滝花を授かるというものであった。
養蚕農家の多い郡上では、猫を飼うところも増え、
猫は蚕を食い荒らす猟取り用とし、あるいは愛玩用としても可愛がられた。
子猫のあいらしい所作をまねしたこの踊りは、
若い衆が在来の踊りに飽き足らないで、即興的に唄い踊ったものと思われ、
歌詞にも字足らずや字余りがみられ、また方言も入っており、
足腰を奔放に動かす愉快なものである。
元禄時代に流行した騒歌は、遊里で三味線や太鼓を用いて賑やかに唄ったものであり、
また地方での騒ぎは、酒宴などで賑わしく唄い踊ったことをいったものである。
江戸中期以降には、郡上の領主も城下町の商工業を盛んにするために
各地から商人や職人を招いて店や仕事場を開かせ、
これらには特別に運上を免じて保護したので益々繁栄をつづけた。
さわぎの歌も、他所からの出入りを許された旅芸人などによって伝えられたものであろう
郡上ではこの踊りに三味も太鼓も入れないが派手な手拍子と、
ことさら踏み鳴らす履物の音が勢いよく響いて、見物衆を興奮させる。
歌詞には男女間の情緒を唄ったものが多いようである。
甚句という盆踊り歌は、地の句が訛ったものといわれ、
各地の歌詞にもその地方で歌いつがれたものが多い。
また一説には、越後国の甚句という人が始めたものだともいわれている。
詞形はほとんど七・七・七・五調からなるもので、
囃子調や節回しはそれぞれに異なっており、
郡内でもまちまちである。
江戸時代末期から流行したといわれる相撲甚句は、
力士が土俵で余興に唄ったもので、
この囃子詞は「ドスコイ、ドスコイ」であるが、
郡上甚句では「トコ、ドッコイ、ドッコイ」
となっている。
郡上領主青山氏の時代に、
城下である殿町に屋敷を築いて下御殿と称した。
領主は在国中の多くをここですごし、
本丸へ行くのは式例の時だけであったという。
げんげんばらばらは、
御殿女中の手毬突きの様子が、
優雅な踊り姿になったもので、
歌詞の元歌は古くから郡上地方で一般に唄われていた、
童歌とか糸引きの座繰りの歌であった。
手毬突き遊びには数多くの歌詞を必要としたので、
口説調の盆歌や子守唄などもうたわれ、
また各地の珍しい歌も取り入れられたものである。
したがって、歌い始めの「・・・何事じゃ」は、
今度の歌はどんな事かと言う問いかけであろう。
その題意は、子供の片足跳遊びのケンケンが、
雉子の鳴声と混同し、
羽根をばたつかせて子を思うところから
「ケンケンバタバタなぜ鳴くね、
親がないか子がないか」
という手毬歌として唄われるようになり、
これが訛ったものであるともいわれている。
承応の時代(1653年頃)から、
四竹打ちといって
扁平な竹片を両手に二個ずつ持って打ち鳴らしながら、
小唄や踊りをする事が流行し、
これを願念坊主(ちょんがれ)といった。
4万8千石の城下町として栄えた郡上八幡へは、
江戸末期になるといろいろな旅芸人が入りこみ、
中でも両方の手に8枚の竹片を連ねて打ち鳴らしながら
「鈴木主水」や「八百屋お七」の祭文を
哀調をこめて門付して唄い回ったのが、
人々の共感を呼んで踊り化したといわれている。
歌詞には、この土地が生んだ貴重な歴史である、
「郡上宝暦義民伝」や「郡上藩・凌霜隊」なども作られており、
囃子詞の「アラ・ヤッチクサッサ」は
(あら、八竹サが来た)という、
それがそのものずばりの題名になったと思われる。
江戸時代に盛んに行われていた伊勢神宮へのお陰参りで、
諸国から集まってくるその参詣者たちが、
伊勢の古市あたりで習いおぼえた
「木遺」の♪松坂越えて坂越えて
坂の峠で日が暮れて・・・・・。
という木遺音頭を、郷里へ帰ってから、
その土地の盆踊り口説きに同化してひろめたものといわれている。
郡上の「まつさか踊り」の囃子詞にある
「ア、ヨイヤナ、ヤートセ」は
伊勢音頭の「ヤートコセ、ヨーイヤナ」の変化したものである。
踊りの手振りや足の運びかたが比較的単調であるのに、
長い伝統をもっているということは、
その歌詞が諸種の語り物から、
地元の名所案内や、郷土の伝説などにつながる口説節になっていて、
多くの人々から愛着をもって迎えられているからであろう。