ヘルシンキとタリンの旅行記

ヘルシンキとタリンの旅行記 (2008年)


1.出発


お盆休みに北欧のヘルシンキへ出かけようと急に思い立ったのは、6月中旬ぐらいだったので、ツアーはどこも満杯状態でした。やむなく、阪急旅行社に無理やり頼んで、飛行機とホテルを予約してもらったものの、朝早くの関西国際空港出発で、行きも帰りも乗り継ぎで、しかも実質3日間というかなりきびしい予定になってしまいました。

8月8日の夜、午後の診療を7時半に終了して、すぐにタクシーで名古屋駅へ。新幹線の中でおにぎりを食べて、10時ちょっと前に新大阪の駅前にあるホテルに到着しました。途中の岐阜羽島付近で、落雷による停電のため、新幹線が止まってしまったのにはびっくりしました。突然、電気が消えて蛍光灯2本だけになり、かなり急なブレーキがかかって止まってしまいました。こんなこともあるのですね。ハードな旅行スケジュールを予感させるような出来事でした。

朝6時にホテルを出発し、JR特急の「はるか」で関西国際空港へ到着。関西国際空港からオランダ航空(KLM)に乗り、ヘルシンキに向かいましたが、途中でアムステルダム乗り換えです。地図で見てみると、飛行機はヘルシンキの南100km程度のエストニア領空内を通過し、そこから2時間ぐらいかけてアムステルダムに到着しているので、かなり遠回りですね。

スキポール空港での乗り継ぎ時間は4時間と、中途半端な時間でした。空港外へ出かけるほどの時間もないので、ネットで調べた空港内にあるという博物館に行ってみることにしました。オランダ国立博物館の分館で、レンブラントやフェルメールの時代の書籍が展示されていると書いてあったからです。ただ、その博物館は空港ロビーのBefore Passportエリア内だったので、一度オランダに入国する形で手続きをし、結構10分以上歩いてやっと着きました。そしたら、何のことはない、小さなひとつの部屋の中に、絵画と書籍が10数点展示してあるだけのことでした。まあおかげで、Before PassportエリアとAfter Passportエリアのショップを全部回ってしまいました。再びオランダ航空に乗り、ヘルシンキに着きましたが、ホテルに着いたのは現地時間の午前1時で、数時間寝て、また朝早く起きるというハードスケジュールです。

2.ヘルシンキの交通と言葉


私にとって、海外の旅行は人々が暮らしている町の雰囲気や、歴史の息遣いを感じるために行くのが主体なので、素晴らしい景色とかおいしい料理などというのはあまり重要視していません。でも、せっかく来たのだから、主だった観光地ぐらいは回っておきたいですね。まず、ホテルでヘルシンキカード(3日間用)というものを家族4人分買いました。このカードは、ヘルシンキ市内のトラム(市電)・ 市バス・地下鉄はどれでも乗りたい放題で、フェリーもかなり割引があり、博物館や美術館の大半は無料になるというしろもので、とても便利です。特に、トラムはかなり乗ったので、十分に元は取れたでしょう。

写真はヘルシンキ市内を走っているトラムです。トラムは、停留所で止まっても扉は自動的には開かないので、乗るときも扉の横にあるボタンを自分で押さないといけません。面倒なようですが、よく考えると、ヘルシンキは冬には−10℃以下になるわけで、そんな時期には、用がない限り扉は開けたくないですよね。写真は6番トラムで、アラビア(フィンランド陶器で有名なアラビア社の工場があるところ)と西ターミナル(タリン行きのフェリーが出る港)を結んでおり、ホテルのすぐ近くを通るものです。他にもたくさんの路線があり、それぞれ番号が付いています。

ヘルシンキを走っている車を見ると、とても日本車が多いです。ざっと1/3は日本車で、トヨタもニッサンもホンダもまんべんなく走っていますが、ヤリス(トヨタのヴィッツ)が特に目につきます。ドイツ車(アウディ・ワーゲン・ベンツ)がかなりの部分を占めているのは当然でしょうが、地理的に見て多いはずの、スウェーデンのボルボが少ししか走っていません。フィンランドは、過去にスウェーデンに支配されていた時代があり、どうもこれはその複雑な国民感情が関係しているように思われます。

フィンランドはフィンランド語とスウェーデン語が公用語で、一般的にはその2つが併記されています。両方とも、ウムラウトが付いたアルファベットがよく出てきて、それが連続して出てくることもよくあります。発音自体は、何となくローマ字読みをすれば良いようですが、意味はほとんどわかりません。ただ、公共的な表示には英語も併記されていることが多いです。また、フィンランド人は90%以上の人が英語をある程度話すことができて、マーケットのおばさんたちでもすべて英語が通じるので安心感があります。

フィンランド語も、中には英語に近い単語が数多くあり、例えば、英語のsaleはフィンランド語でale、スウェーデン語でreaです。ショップにはあちこちに書いてあるので、覚えてしまいました。話は変わりますが、かなりの店にaleやsaleの札が張ってあり、50%OFFとか70%OFFとかが続出で、棚の方もsupecial offer(特価品)が乱発してあります。特に、観光客用でない店はそんな感じが強く、それまで持っていたフィンランドのイメージと違っていて、ちょっと面白かったです。

3.スオメンリンナへ


ヘルシンキ1日目は、ホテルで朝食をとった後、最初にスオメンリンナに行くことにしました。スオメンリンナはヘルシンキの沖にある島で、島全体が巨大な城砦になっており、ユネスコ世界遺産に登録されているものです。スオメンリンナへ行くフェリーはマーケット広場の横の港から出ているので、そこまでトラムに乗って行こうと、ホテルのすぐ近くにあるトラムの停留所に行きました。ところが、その日はちょうど日曜日でした。平日なら朝6時台からトラムが動いているのですが、日曜日は9時からしか動かないようで、しかたなく港まで歩いてゆくことにしました。といっても、町の景色を眺めながらゆっくり歩いて、20〜30分程度です。

スオメンリンナの築城が最初に始まったのは1748年で、当時フィンランドを支配していたスウェーデンが、ロシアからの防衛のために40年の歳月をかけて完成させました。ただ、皮肉にも1809年にフィンランドがロシアに占領されてからは、スウェーデンからロシアを守るために使われることになり、110年の間、ロシア人がこの城砦に留まっていました。1855年のクリミア戦争の時に、英仏が2日間にわたってこの城砦を攻撃しましたが、どうしても落とすことはできなかったとのことです。フィンランドが1917年に独立すると、その翌年にフィンランド(スオミ)を守る城砦という意味で、スオメンリンナ(スオミの城)と改名されました。

船は港から20分程度でスオメンリンナに到着しましたが、乗客は数人だけ。着いたのも日曜日の朝早くだったので、ほとんど誰もおらず閑散としており、博物館などもまだ開館前でしたので、ずっと城砦の址を散策しました。橋でつながっている4つの島がすべて城砦となっており、全体としてはかなり広いものです。権威を表すための宮殿のような城と違い、本当の戦争のために作られたものだけあって、装飾は一切ありません。そして、随所に攻撃や防衛のための工夫が見られ、壁は岩を積み上げて固めただけです。中は薄暗い洞窟のような構造で、ここで何千人もの人が戦って死んだかと思うと恐ろしい感じで、いつ幽霊が出てもおかしくない雰囲気です。小雨の降る中を40〜50分ずっと歩き回り、再び船着場に戻ってきました。

4.ヘルシンキ市内へ


11時ごろマーケット広場横の船着場に戻り、そこからウスペンスキー寺院とヘルシンキ大聖堂を見に行きました、両方とも歩いて行ける距離です。日曜日なので、ウスペンスキー寺院は礼拝の真っ最中であり、中に入ることは出来ませんでした。入り口から覗いてみると、オルガンが鳴り、賛美歌が歌われ、そして人々が日常生 活の一部として祈りを捧げています。ギリシア正教会の寺院なので、聖壇の回りは大小のイコンがたくさん飾られており、カトリックやプロテスタント系の教会と少し違った感じです。19世紀半ばからずっと、こうやって礼拝が続けられてきたのでしょう。教会も寺院も、歴史的建造物というだけでなくて、現在も使っているということに大きな意味があるのだと思うのです。また、ウスペンスキー寺院の入り口付近の階段には、物乞いのおばあさんが2人いました。服装はエプロンにネッカチーフと古い本にでも出てきそうな雰囲気なのですが、お金を入れてもらう入れ物は、ヨーグルトかバターのプラスチック容器で、そのミスマッチが印象的でした。

ヘルシンキ大聖堂もウスペンスキー寺院と同時期に立てられたギリシア正教会の寺院で、歩いて数分の距離のところにあります。こちらは敬虔な祈りを捧げるというよりは、盛大な儀式を行うためのものと思われます。大聖堂の前には元老院広場という大きな広場があり、その両横にはヘルシンキ市議会とヘルシンキ大学があります。おそらく、広場に集まった群衆に向かって、時の権力者が演説をぶったのでしょう。建物の中にも入ることが出来ましたが、ウスペンスキー寺院と同じように、大小さまざまなイコンがたくさん飾られています。写真は、元老院広場からヘルシンキ大聖堂を見たもので、大聖堂の前には大きくて急な階段があります。

ちょうど昼ごろとなり、マーケット広場で昼ごはんを食べることにしました。マーケット広場は露店がにぎやかに並んでおり、果物・野菜・食べ物の他に、衣類・バッグ・雑貨・装飾品などいろいろ売っています。ラップランドで採れた海産物を炒めたというものに最初は心が惹かれたのですが、見ると何となく得体の知れない感じがして不安になり、結局、ハンバーガーとコーラにしてしまいました。ハンバーガーはかなり大きくておいしかったのですが、両方で7.5ユーロ(約1300円)と、露店にしては結構な値段でした。別にその店が高いというわけではなくて、北欧は全体的にやや物価が高い上に、消費税が22%もあります。それから、最近、円の価値がどんどん下がっていることも関係していると思います。ドルと比較しているとあまり円安にはなっていないように見えますが、ユーロと比べると円の価値はかなり下がっているのだなと感じました。

昼からは、エスプラナーディ(Esplanadi)通りを散策しながら、ヘルシンキ中央駅の方に向かいました。エスプラナーディ通りは、ヘルシンキ一番の繁華街ですが、東京で言えば銀座通りといった感じのところで、高級ブランドショップやヨーロッパの有力企業のビルなどが立ち並んでいます。妻と子供たちはいくつか店に入りましたが、私にはあまり関係ないので眺めているだけです。ただ、道路の中央は、札幌の大通り公園のように木がたくさん植えられており、芝生やベンチがたくさんあって、市民の憩いの場になっているようでした。フィンランドの人は、特にアイスクリームが好きなのかどうかわかりませんが、結構いい年のおじさんやおばさんがアイスクリームを食べながら歩いています。スーツにネクタイの紳士が、3人並んでアイスクリームを手にして歩いている光景は、あまり日本では見られない感じがして面白かったです。

その後、郵便博物館と国立現代美術館キアズマを見て回り、国会議事堂の前を通り過ぎて、国立博物館に向かいました。国立博物館を見てから、テンペリアウキオ教会の方に向かったのですが、テンペリアウキオ教会は道が入り組んだ住宅地の中にあって、道がわかりにくいです。地図を見ながらウロウロしていたら、小さな公園で子供を遊ばせていた若夫婦が、尋ねもしていないのに「こっちこっち」と教えてくれました。フィンランドの人たちは、全体的にとても親切で、応対も笑顔でていねいです。

テンペリアウキオ教会は、1969年に完成した自然を生かした現代建築です。言葉では説明しにくいのですが、教会を囲む壁は岩盤そのままの状態になっており、そのきドーム状の天井を付けた形になっており、天井のかなりの部分は透明なので、とても明るいです。ここも、普段に使われている教会ですが、礼拝が終わった後だったので、中に入ることが出来ました。

そこから、再びトラムに乗って町の真ん中に移動し、スーパーマーケットに行きました。ソコスホテルの地下にあるM-Marketですが、市内のあちこちにあるチェーン店のようです。外国はどこへ行っても、その地元のスーパーマーケットに必ず行くことにしています。一般の人たちの生活を垣間見ることができて、とても面白いです。食料品だけでなく雑貨品など何でも売っていましたが、ここではミネラルウオーターを買っただけでした。

一度、トラムでホテルに戻った後、夕食に出かけました。トラムでやや南の方に下がり、Sea Horse(タツノオトシゴの意味)というフィンランド料理店に行きました。いわゆる高級レストランではないのですが、ネット上でもよく話題にされている、地元では有名な店です。とてもおいしかったことは言うまでもありませんが、量の多さにはびっくりしました。サンドイッチは大皿からはみ出すぐらいにのっており、チキンのミートボールも直径4cmぐらいのものがうず高く盛られており、かなり少なめに注文したのですが、すごくお腹いっぱいになりました。注文するときに、私の英語の発音が悪くてうまく通じなかったら、すぐに日本語のメニューを持ってきてくれました。韓国人や中国人もいるはずなのに、どうして日本人と思われたのかは不思議です。ただ、ヘルシンキで出会った東洋人は、確かにほとんど日本語をしゃべっていました。中国や韓国の人たちは、北欧まで足を伸ばす人はまだ少ないのかもしれません。

店を出たら、まだ午後8時でした。普通だったら、午後8時ならもうホテルに戻るかと考える時間なのですが、日没は午後10時半ぐらいなので、日はまだ高いです。日本ならまだ4時ぐらいの感じで、夕方という感じすらしません。さすがに、フィンランドは緯度の高いところですね。ただ、白夜はフィンランドでも北の方のラップランドの方に行かないと、体験できません。何となくもったいないので、もう一度トラムに乗って町の中心に出ました。そこから、環状に走るトラムに乗り換えて、市内を何となくぼんやりと眺めながら30〜40分ぐらい乗り、結局ホテルに戻ったのは午後10時頃でした。しかし、まだそれでも日は沈んでおらず、とても明るいです。こんなペースで、何日も過ごせるのか、多少は心配になりました。と言いながら、そのあとホテルでオリンピックの開会式をしっかり見てしまいました。そうです、今日は北京オリンピックの始まった日でもあったのです。

5.タリンへ


2日目は、隣の国のエストニアの首都、タリンへ行きました。このツアーは、7月頃にインターネット上で見つけて、予約しておいたものです。ヘルシンキの旅行会社とメールで何度かやり取りして、最後にpdfファイルのバウチャー(引換券)が2枚分、メールの添付ファイルとして送られてきました。それをプリントして持っていったのですが、何となく心配でした。フェリーが国際線のため、パスポート番号や生年月日などはメールで送り、VISAカードなどはFAXで送っておいたのですが、うまくボーディングチケットと交換してくれるか、不安でした。しかし、しかし、ターミナルでバウチャーを出すと、ちゃんと往復の切符を発行してくれて一安心です。

そこから船に乗り込んだのですが、出国手続きも、エストニア側の入国手続きも、ゲートを素通りしただけで、係員がパスポートをチェックすることは全くありませんでした。エストニアはEU加盟国で、ヨーロッパのシェンゲン協定(国境検問所相互廃止協定)にも参加しているので当然のことなのです・ェ、ヨーロッパでは、国境の存在感がだんだん希薄になってきているのだなと感じました。船は1時間半でタリンに到着。ヘルシンキ市内では、結構日本人(というか東洋人)を見かけたのですが、さすがにエストニアまで来ると、ほとんどいません。

タリンの港に着くと、ガイドさんが待っていてくれました。今回のガイドツアーは私たち家族4人と、オーストラリア人3人(60歳ぐらいの女性と20歳台ぐらいの男女2人で、たぶん家族)の7人で、女性のガイドさんは子供が中学生だと言っていたぐらいの年齢です。オーストラリアは、ヘルシンキから見ればほとんど地球の裏側で、日本よりもずっと遠いところのはずです。よくこんな遠くまで来たものですね。

まず、ワゴン車に乗って、タリン市内の主に周辺部をあちこち案内してくれました。大統領官邸で一度車を降りて、その周囲にある公園を散策。たくさんの花が植えられていて、とてもきれいです。前日の夜、テレビのCNNニュースで見て知っていたのですが、このタリンに行った日は、グルジアとロシアの戦争が始まった日でもありました。英語ではグルジアのことをジョージアと発音するので、最初よくわからなかったのですが、トビリシを攻撃したという話で理解ができました。

エストニアは1991年にロシアから独立したわけですが、独立の前後にはいろいろ緊迫した事態がたくさんあったようです。その頃はガイドさんも20歳ぐらいだったそうで、恐ろしい経験を何度かしたそうです。今回のロシアとグルジアの戦争のニュースを聞いたとたん、エストニア独立の頃のことを思い出し、とても怖くて悲しい気持ちになったと話していました。大統領官邸も、大統領はグルジアのことできっとヨーロッパ中を走り回っていて、ここにはいないだろうとのことでした。

独立してからのエストニアの経済発展は目覚しいものがあり、現在では自家用車の保有率もイギリスやフランスと同じくらい(たぶん日本と同じくらい)だそうです。IT関連の企業が多く、ヨーロッパにとってのエストニアは、アメリカにとってのインドのようなものだと言っていました。車は、西側諸国の車や日本車がほとんどで、トヨタのプリウスも見かけました。東欧製やロシア製の古びたものも多少は走っていましたがわずかで、旧共産圏の雰囲気は少ししか残っていません。まるで中世そのままの感じの旧市街と違って、タリンの新市街地は普通のヨーロッパの大都市とまったく同じ感じでした。

車の中では、ドイツ騎士団・デンマーク騎士団の時代から、ポーランドやスウェーデンの支配の時代、ロシア支配の時代など、いろいろ説明してくれましたが、中欧や東欧の歴史知識が足りないせいで(もちろん英語力も不足で)、よくわかりませんでした。ただ、長い間、いろいろな国に支配されてきた小さな民族であって、他の国々に対して複雑な思いがあるようです。ロシアの話になると、言葉にトゲが感じられます。ドイツに関しては、ドイツ騎士団のことは古いので問題にはならないようですが、ナチスには一時占領されています。独立後、急速な経済発展を遂げましたが、資本自体はドイツ資本が多いらしく、儲かったお金は全部ドイツに持っていってしまうと、ドイツの印象もあまり良くないようでした。

そのあと、タリンの旧市街に入り、トームペア(Toompea、山の手の意味)城の前にあるラエコヤ広場で車を降り、徒歩にて散策です。タリンの旧市街は1km四方ぐらいとそれほど広くはありませんが、中世の雰囲気をそのまま残しており、周囲の新市街地とはまるで別世界です。

写真の塔はラエコヤ広場に面している旧タリン市庁舎の塔で、教会ではありません。そして、写真には写っていませんが、その真正面にロシア正教のアレクサンドル・ネフスキー教会があります。行ったときにはちょうど礼拝を行っていて、少し覗いただけですが、何人かの人たちがコーラス(ちゃんと和音になっている)で賛美歌を歌っており、厳かな雰囲気でした。ガイドさんの話では、毎日2回ずつ礼拝があるそうですが、そんなにあったら礼拝に参加する人も大変ですね。また、このロシア正教の教会はナチス支配の少し前のロシア支配時代に作られたもので、エストニア人の多くはプロテスタントなのに、市庁舎の正面に威圧するようにロシア正教の教会・ェ建てられているのは、気分が良くないと言っていました。ただ、エストニアにはソビエト時代に移住してきたロシア系住民(約3割)も数多くいるわけで、複雑な問題を抱えていることも確かです。ガイドさんも、英語でしゃべっているからいろいろ言っているけど、エストニア語では道端で話せないことなのかもしれません。

タリンの旧市街地はユネスコ世界遺産なのだし、中世からの建築物が多く残っていることは確かでしょうが、数多くの戦争で壊れてしまったものも多いはずで、かなりの部分は、つい最近に造られたように思われます。細い路地を見ると、結構人が住んでいるようですが、周囲の雰囲気を壊さないように、中世の古い雰囲気を備えた造りになっており、路地もすべて石が敷き詰められています。ガイドさんの案内で、いろいろな建物と路地をぐるっと一回りして、マーケット広場も少し覗いて、そのあと昼食です。

昼食はKuldse Notsu Kortsというエストニア料理の店で、エストニア語で「金の豚の食堂(Golden Pig Restaurant)」という意味だそうです。チキンソテーのようなものが出てきましたが、とてもおいしかったです。料理を持ってきてくれたお姉さんは、髪の毛が黒に近く、もう少し中央アジアに近いところの民族のような雰囲気の人でした。どう違うのかはっきりとは説明できないのですが、エストニアの人は、全体的にいわゆる西ヨーロッパとは違っている感じです。また、フィンランドと違って、エストニアでは英語がほとんど通じませんが、ロシア語はかなりの人がわかるらしいです。50kmの海で隔てられているだけなのに、かなり違うのだなと思ったのですが、よく考えてみれば、福岡と釜山だって高速船で3時間かからないわけですから、やはり、国が違う、民族が違うということは大きなことです。

ツアーで一緒だったオーストラリア人のお姉さんは赤ワインを大きなグラスで3杯も飲んで元気でしたが、ごっついお兄さんがセロリが嫌いで食べ残したところは、かわいくて面白かったです。お姉さんの赤ワインは別料金なので店で払っていましたが、ユーロでもOKのようでした。エストニアの通貨はEEK・iエストニアクローン)なのですが、観光地の食堂ではユーロが通じるようですね。エストニアもEUには加盟したので、ユーロ圏になるもの時間の問題なのでしょう。

昼食後にはガイドさんと別れたのですが、まだ少し時間があったので、ふとっちょマルガリータというのを見に行くことにしました。これは、市街地を取り囲む城壁にある塔で、タリン旧市街では有名で目立つ建造物です。ただ、それに向かって歩いていると、その途中にある聖オレフ教会(これも由緒ある教会なのですが)にある高い尖塔の屋根の上に、人がいるではありませんか。ひょっとして登ることが出来るのかと思い、さっそく教会の中に入ってみました。すると、教会自体は入場無料なのですが、塔に登るのにはひとり30EEK(300円ちょっと)が必要でした。でも、せっかくここまで来たのだから登らずにはいられません。港の両替所で少しだけ両替しておいたのが、ここで役に立ちました。階段はすれ違うのが難しいぐらいの細いらせん階段で、塔の高さは思ったよりも高く、かなり汗が出て息が切れました。しかし、尖塔の屋根の上に出てみるとやはり絶景です。

結局、尖塔に登っていたせいで、マーケットや店は少しは覗いたもののお土産を買うひまはなく、待ち合わせ場所のソコスホテルヴィルに急ぎました。ソコスホテルヴィルは、旧市街を出てすぐのところにある、22階建ての高層ビルで、1階はショッピングセンターになっていて、マクドナルドもあります。なんだか夢の世界から急に現実世界に戻ってきたという感じでした。

港までワゴンで送ってもらい、再び高速船に乗ってヘルシンキに戻りました。船は高速船と言ってもかなり大きなフェリーです。中にはマーケットまであって、食料品から日用品までいろいろ売っています。観光客もそこそこいるのでしょうが、このあたりに住んでいる人たちの、日常の交通手段という側面が強い感じです。ヘルシンキで降りると、船内のマーケットでビールを何ケースも買った人がたくさんいました。アルコール税以外に消費税が22%の国ですから、外国航路の船の中はかなり安いということなのでしょう。エストニアにはSAKUビールというとてもおいしいビールがあるという情報を事前に仕入れていたので、2〜3本買っておけばよかったなと後悔したのですが、あとの祭りです。

ヘルシンキに着くと、トラックやトレーラーがこんなに入っていたのかと思うほど、フェリーからたくさん出てきます。船がヘルシンキに着いたのは午後8時なのですが、昨日と同じでまだとても明るいので、また町の方へ出かけることにしました。移動にはトラムばかり乗っていましたが、港から町の中心部への交通は市バスです。市バスはこのときに1回乗っただけですが、とても長くて後輪は2つずつあり、日本の市バスの2倍弱ぐらいの長さがあります。こんなに長いバスがどうやって走るのかと思いましたが、結構細い道でもすいすい曲がってゆくのにはびっくりしました。

町の中心には出たけれど、結局、あちこちのショップをうろうろしただけで、マーケットに寄って、子供たちはマクドナルドに寄って、トラムでホテルに戻りました。トラムに乗ったらオランダから来たというおじさん2人組に話しかけられました。私たちがオランダ航空でヘルシンキまでやってきて、途中でアムステルダムで乗り換えたという話をすると、オランダの飛行機は最高だよと、とても喜んでいました。日本から来たと言うと、ホッカイドーから来たのかと言うのです。どこでそんな地名を聞きかじったのでしょうね。とても陽気な2人で、ギターを大事そうに抱えて、フリーマーケットの停留所で降りてゆきました。

もう午後10時を過ぎていたのですが、まだ日は沈んでなくてとても明るいです。マクドナルドでは、ビッグマックが1個で4ユーロ(約680円)したらしく、フィンランドはやはり物価が高いですね。ホテルでは、またテレビを見ていましたが、CNNはグルジアの紛争ばかり報道していました。ユーロスポーツというチャンネルがあって、そちらはほとんど北京オリンピックをやっていました。

6.再び、ヘルシンキ市内へ


3日目の午前中は、再び市内観光に出かけました。朝6時に起きて6時半から朝食、7時半にはホテルを出ましたが、1日目と違って日曜日ではないので、朝早くからトラムは動いています。まず、昨日、オランダ人がトラムを降りて行ったフリーマーケットに、歩いて行ってみました。途中で、娘が郵便物を投函しましたが、フィンランドのポストは、黄色で四角く、日本のポストよりは小さいです。

フリーマーケットは、朝早くだったのでまだ店が全部開いておらず、適当に切り上げて、トラムでハカニエミ・マーケットに向かいました。ハカニエミ・マーケットはヘルシンキで一番有名なマーケットで、果物・花・野菜・衣類・雑貨類・お土産など、いろいろな店があります。屋内のマーケットもあって、そちらはパン・ケーキ・果物のほか、トナカイの肉やサーモン・巨大なエビなども売っています。

ヘルシンキの日中の気温は15〜22度くらいなのでとても涼しく、夏の間は、花もよく育つようです。街角には、ゼラニウムやロベリア、インパチェンスなどが目立ちます。マーケットではそれ以外に、バーベナ、マリーゴールド、クリサンセマム、アスター、ペチュニア、ミニバラなど、売っているものは日本でもよく見かけるものばかりでした。ただ、フィンランドの花のシーズンは夏の間だけなので、日本のように春咲きと秋咲きの区別が明確ではないのかもしれません。ビオラとマリーゴールドとか、ノースポールとペチュニアなど、日本ではありえないような組み合わせの寄せ植えを飾っている家も、ときどきありました。

屋外の店を一回りしたあと、屋内マーケットに移動し、2階にあるマリメッコ(Marimekko)の店で、妻と子供たちがいろいろ買い込みました。マリメッコは、フィンランドを代表するファッション、インテリア、バッグ、生活雑貨などを取り扱うブランドで、鮮やかな配色と斬新なデザインが売り物です。私は、あまり興味はなかったので、眺めていただけでしたが、マリメッコに限らず、フィンランド自体がデザインを売り物にしているだけあって、ヘルシンキを歩いてい・トも、全体的にファッションは洗練された感じがします。

次に、トラムを乗り継いでフィンランド建築博物館、デザイン博物館、デザインフォーラムフィンランドの3つに行きました。この3つは、互いに歩いてすぐのところにあります。デザイン博物館はフィンランドが得意とするいろいろなデザインを集めた博物館かと思ったのですが、1873年と古くに設立され、建物自体も1894年と100年以上前に建てられており、展示だけでなく教育やワークショップなど幅広い活動をしているようでした。フィンランドのデザインは、つい最近始まったものではなく、100年以上の歴史があるということを、この博物館を見て強く感じました。

デザインフォーラムフィンランドは、現在活躍しているアーティストの作品を展示、販売しているところです。国立現代美術館キアズマのようなシュールリアリズム的なものでは、素晴らしいと思ってもその作品を買いたいという意欲がぜんぜん湧かないのですが、デザインフォーラムの方は、感じのよい作品がたくさん並んでおり、購入意欲がそそられます。しかし、結局、中にあるカフェでカプチーノを飲んで帰っただけでした。コーヒーを入れたカップは、さすがにデザインフォーラム内の店だけあって、洗練されたデザインのもので、ショップのお姉さんも笑顔のきれいなとても感じのよい人でした。英語で話していても、最後にサンキューと言ってからキートス(フィンランド語の「ありがとう」)と言ってくれます。

そこから少し歩いたところにあるウーデンマー通り(Uudenmaankatu)を少し歩きました。エスプラナーディ通りが銀座なら、こちらは六本木といった感じのところです。そして、エスプラナーディ通りをずっと歩いて、本日午後のメインの予定である「ヘルシンキの森と湖」ツアーの受付場所に向かいました。


7.ヘルシンキの森と湖


このツアーも、7月頃にインターネットで、ヘルシンキエキスパートという旅行会社に直接・\約したものです。タリンツアーのように国際航路の船に乗るわけでもないため、楽天などの通販で物を買うのと全く同じで、料金は予約した時点でカード引き落としです。ただ、こちらも予約受付番号がメールで送られてきただけなので、何となく不安でしたが、プリントしたものを持っていたら、すぐに切符をくれました。バスが来るまで待ち時間が少しだけあったので、受付場所のとなりでアイスクリームを買いました。日本のものより多少甘みも香りも強いですが、やはりとてもおいしいです。

そうこうしているうちにバスがやってきて乗り込みました。一行は全部で24人で、私たち以外にもう1組、夫婦連れの日本人がいましたが、あとはヨーロッパ系の人たちです。ガイドさんは20台の若い女性で、とてもパワフルな話し方をする人でした。行き先はヌークシオ国立公園というところで、ヘルシンキから高速道路で40分ぐらいfの欧米人でも、そのパンフレットの裏をときどき見ている人がいましたので、ドイツ人とかフランス人などの英語がネイティブでない人もいたのでしょう。

パインは見たところ日本の松とは全然葉が違い、マツカサ(pine cone)も細長くてとても大きいです。次に、ガイドさんが湖のほとりで立ち止まったときに、今度は魚の話を始めました。湖にはパーチ(perch)という魚がたくさんいて、ここは国立公園だからだめだけど、多くの人があちこちの湖に釣りに出かけ、食べるととてもおいしいという話です。ただ、パンフレットの裏を見ると、日本語でもパーチと書いてあり、日本には良く似た魚はいないようでした。

道端には、ベリーの実がところどころになっており、皆、途中で摘んでは食べていました。かなり酸っぱくて少し甘い感じですが、とてもおいしいです。毎日ハイキングツアーがあるはずなのに、よく無くなってしまわなものですね。ずっと湖の周りの森の中を歩いて、1時間半ぐらいで湖のほとりの休憩場所に着きました。

ラップランド風のコテージの中でコーヒーとパンをいただき、草の上のベンチで休憩しました。何といっても気温は20度くらいですから、ハイキングにはちょうど良い気候です。私は半袖を着ていましたが、タングトップだったオーストラリア人のおばさんは、肩のうしろが結構な虫刺されになっていました。

フィンランドの森と湖を十分に満喫してヘルシンキ市内に戻ってきたら、まだ午後5時でした。それから、エスプラナーディ通りのストックマン・デパート(北欧最大級のデパートで、もともとは書店だった)に行き、フィンランドのお土産をいろいろ買い込みました。私も、いわゆるお土産の他に、アーリッカのグラスを買いました。

夕食はデパートの食堂で食べようかとも考えたのですが、お土産の荷物があまりにもたくさんあったので、トラムで一度ホテルに帰りました。これが、失敗で、それからガイドブックに載っていたデザイン博物館近くのレストランに行ったところ満員で断られ、ウーデンマー通りの方に歩いていったところのレストランも満員で、あきらめてピザを食べて帰りました。

8.帰路


3日間、朝の7時から夜の10時まで毎日フルに出歩いたので、さすがに疲れました。最終日も朝の6時にホテルを出発し空港へ向かいました。帰りはエール・フランス航空でパリのドゴール空港経由です。これも、行きと同じでかなり遠回りですね。ドゴール空港での乗り換えはほとんど時間がなく、ショップはちらっと眺めただけでした。

関西国際空港には日本時間の朝8時頃に到着しました。すると、何とスーツケースが届いていないのです。ドゴール空港は、よく荷物がどこかに行ってしまうことが多いようで、うちの息子も、イギリスへ行った帰りに、荷物がブラジルへ行ってしまいました。ただ、物は考えようで、関西国際空港から、大きなスーツケース2個を持たずに家へ帰れるということで、とても楽でした。そして、スーツケースは、料金は空港持ちで翌々日に宅急便で家に届きました。