スペイン旅行記

スペイン旅行記 (2013年)


1.バルセロナ ガウディ作品群


朝早くホテルを出発し、まずはサグラダ・ファミリア(聖家族贖罪教会)に行きました。バルセロナとモンセラートのガイドさんは、やや太めの日本語が上手なお姉さんです。ヨーロッパ自体がバカンスシーズンに入っているせいか、まだ9時なのにサグラダ・ファミリアはすでにすごい人です。

まず、聖家族教会とは何かというを私自身も知らなかったので、書いておきます。聖書では、聖母マリアは処女で懐妊したことになっていますが、当然(正式には結婚していなかった)夫はいて、マリアの夫、つまりイエスの父親はヨセフ(スペイン語ではサン・ホセ)という名前でした。ただ、古くは宗教上かなり疎外されており、中世の宗教絵画でも、なぜか聖ヨセフは老人(つまり生殖機能が無いという意味)として描かれていました。聖ヨセフが聖人に列せられたのは、なんと1870年になってからのことだったのです。

15世紀になると、ヨーロッパでは家父長制が浸透し、家族を大切にする意識や父親の存在を重要視する機運が高まり、・ケ家族(イエスとマリアとヨセフの3人)を信仰の拠り所にするグループが、スペインのバレンシアを中心に生まれてきました。以後、サン・ホセ(ヨセフ)はバレンシア地方の守護神とされ、有名なバレンシアの火祭りも、ヨセフの職業が大工で、大工は家が完成すると端材を燃やして完成を祝ったので、そこから発展したものと言われています。

この聖家族を信仰の拠所にするグループが、個人寄付を募ってバルセロナに贖罪教会を作ろうと計画したのが、このサグラダ・ファミリアでした。1882年に着工しましたが、その翌年からガウディが設計・建築を担当し、スペインのモデルニスモ(モダニズム、フランスではアールヌーボー)を代表する建築物となりました。建設に非常に時間がかかっているのは、計画が壮大だったこともありますが、寄付金がなかなか集まらず、どんどん作ってゆくわけにいかなかったこともあったようです。

サグラダ・ファミリアは、中に入ると思ったよりも広くステンドグラスもとてもきれいですが、デザイン的には多少オーソドックスな教会とは違う雰囲気があります。柱がいずれも真っ直ぐでなく、上の方で枝分かれして天井を支えており、まるで森の中にいるような感じです。力学的にも、この構造でゴシック様式の特徴であるフライング・バットレスをなくしていることは画期的です。

1883年からガウディが手がけた部分は石積みでできていますが、1980年代頃からは、骨格部分はコンクリートで作られるようになっています。確かに柱や壁の一部はコンクリート製なのですが、ガウディの設計を忠実に再現したデザインのせいか、違和感は全くありません。サグラダ・ファミリアがあまりにも有名になり、訪れる人や寄付をする人が増えたため、最近は財政的にもかなり余裕ができてきました。コンクリート構造の使用と合わせ、現在、工事のピッチはどんどん速くなっているようです。

ファサード(教会の正面デザイン)も、ガウディが手がけた生誕のファサード、ガウディ没後スキラッティが手がけたさらにモダンアート的な受難のファサード、まだ出来ていない栄光のファサード。塔もたくさんあります。面白いのは、建設が始まってから100年以上経っているため、古い部分は黒っぽく少し汚れた感じで、最近出来た部分は白っぽい感じで、場所によって色がかなり違うことです。

塔のひとつにエレベーターがあり、それに乗って塔の上の方まで行きました。バルセロナ市街が一望に見渡せ、その向こうには地中海も見えます。サグラダ・ファミリアも上から見下ろすことができ、素晴らしい眺めです。塔の中にはらせん階段もあり、それで地上に降りることも出来ましたが、さすがに自信がなかったので、再びエレベーターで降りました。

次に向かったのは、やはりガウディが手がけたグエル公園です。ここは入場料が無料のせいか、観光客だけでなくバルセロナの人たちも遊びに来ているようです。あちこち散策して回りましたが、19世紀末から20世紀初頭のモダニズムの影響を色濃く残した園内は、不思議な世界です。高台の方からは、バルセロナ市街が見渡せ、サグラダ・ファミリアも見えますし、ずっと向こうには地中海も見えています。

昼食はバルセロナのラ・フォンダという店で、地中海の見える屋外のレストランです。ここでパエーリャ・マリスコ(海の幸のパエーリャ)を食べました。パエリアは13人分を一度に作れる大きなフライパンに入っていて、ウェイターがそこから皿に分けてくれました。食べてみるとやはり現地のものは違うなという感じで、とても美味しかったです。

レストランのすぐ近くには砂浜があり、地元の人達が遊びに来ていました。日差しはかなり強いのですが、バルセロナはそれほど暑くなく、乾燥した気候なので快適です。港にはヨットが100隻以上係留されていました。地中海はおだやかで、いつまで見ていてもきれいです。この海の向こうはチュニジアだと思うと、不思議な気がしますね。カルタゴの時代もイスラムの時代も、地中海の北と南はすぐ近くだということなんでしょう。

2.モンセラート


モンセラートは、バルセロナの北60kmのところにある、キリスト教巡礼地・フひとつです。9世紀に創建されたというベネディクト会のサンタ・マリア・モンセラート修道院の付属大聖堂には、カタルーニャ地方(バルセロナ周辺)の守護神とされている「黒いマリア像」があり、多くの信仰を集めています。スペインで巡礼地と言えば、西北部にあるサンティアゴ・デ・コンポステーラがあまりにも有名ですが、このモンセラートも、アーサー王の聖杯伝説に登場するだけあって、ヨーロッパでは人気のある巡礼地のようです。

モンセラートの修道院や大聖堂は標高720mのところにあり、かなり涼しいです。巡礼の人はもちろんふもとから徒歩で、普通の人はロープウェイとフニクラ(登山電車)を乗り継いで上がってくるのですが、我々は、バスで修道院のところまで来てしまいました。

大聖堂の入り口まで来ると、すごい行列が出来ています。黒いマリア像に会いに来た人たちで、巡礼の衣装を着た人もいます。マリア様に会って願い事を聞いてもらうのには、1時間半も待たないといけないそうなので、我々はパスして大聖堂を見学することになりました。

午前中に行ったサグラダ・ファミリアも素晴らしかったですが、モンセラートの大聖堂は、歴史の重みが感じられるオーソドックスな様式で、また別の意味で素晴らしかったです。モンセラートはスペイン語でのこぎり山という意味で、ここからケーブルカーで更に上がって行くと、標高1235mの山頂まで行けるようでしたが、時間がないので無理でした。

帰りの通路に、巡礼の人たちが灯した灯明がたくさん並んでいました。何だか日本にでもあるような光景なのですが、根本的に違うのは、白いロウソクはなくて、ロウソクはすべて赤・青・黄のどれかの色なのです。やはり、お国柄でいろいろ違うんですね。

モンセラートへ行った後、一度バルセロナ付近まで戻ってから、バレンシアまでバス移動です。バルセロナからバレンシアまでは454kmもあり、非常に遠いです。バスは、海岸沿いにリゾートマンショがたくさん立ち並んでいるコスタ・ドラダ(黄金海岸)に沿って、高速道路をずっと進んで行きます。

3.バレンシアからグラナダへ


朝、バレンシアを出発。結局、バレンシアはホテルに泊まっただけで、何も見ずに通過しただけでした。

バレンシアは、バレンシアオレンジで有名なところです。バレンシアにオレンジが入ってきたのは、アラブ人が観賞用のオレンジを持ち込んだのが最初でした。その後、バレンシアの人々が、その苦くて食べられない観賞用オレンジに品種改良を重ね、やがて食用のオレンジ品種を作り出しました。そして、それにバレンシアオレンジと名付けて世界に輸出するようになったのです。現在は、バレンシアオレンジとは言わず単にオレンジと呼びますが、最初の食用品種のオレンジはここで作られたわけです。

また、米もアラブ人がこのバレンシアに最初に持ち込みました。有名なパエリアは、本来はアラブ人の食べていた料理が、9世紀にバレンシアでスペイン人に広まったものです。バレンシア風パエリアは、ウサギまたはチキンといんげん豆の入ったもので、当初は、よくある郷土料理のひとつにすぎないものでした。それが、後になってバレンシア近くの港町でシーフード入のパエリアが作られるようになると、とてもおいしいと評判になり、それからパエリアが世界中に広まって行ったのだそうです。

4.グラナダ アルハンブラ宮殿


アンダルシアに入る前に、スペインの歴史を考えてみましょう。スペインの支配者は、フェニキア人・ギリシア人、ローマ帝国、西ゴート王国、後ウマイヤ朝、スペイン帝国などと続いてきました。このうちイスラム教国の時代(711〜1492年)は782年間あります。西ゴート王国がキリスト教を国教としたのは589年ですから、スペインのキリスト教国としての歴史は、合計しても643年間です。レコンキスタ(国土回復運動)時代を半々と考えれば、スペインのイスラム教国としての歴史は、キリスト教国としての歴史と同じくらいの長さなんですね。

中世は、キリスト教文化圏よりもイスラム文化圏の方が、文化的にも技術的にもはるかに優れていた時代です。これから行くアルハンブラ宮殿は、当時のイスラム文化の素晴らしさを伝える遺構であるとともに、スペインでイスラム教国が滅亡する最後を見届けた宮殿として歴史的価値・熏bュ、前からぜひ行って見たいと思っていた場所です。

グラナダやコルドバなどのアンダルシア地方は、スペインでも一番南の地域にあたり、かなり暑いです。この日も最高気温は42度。アルハンブラ宮殿散策は5時からといっても、サマータイムで夜明けが7時ちょっと前ですから、一番暑い時間帯が4〜5時頃なのです。地中海性気候のためかなり空気は乾燥しているので、42度と言っても体感温度は名古屋の35度くらいの感覚ですが、知らないうちに汗をかいているので、ミネラルウォーターは欠かせません。

アルハンブラ宮殿には、バスは予定通りに着きました。宮殿は標高750mの高台の上あり、グラナダ市内よりはちょっとだけ気温が低いですがやはり暑いです。ガイドさんは2人いて、ひとりはスペイン人のお兄さん、もうひとりは日本人の女性でした。スペインでは、「その地域に住んでいて、しかもガイドライセンスを持っている」という人しか、観光ガイドをしてはいけないことになっています。スペイン人のお兄さんが正規のガイドさんで、チケットを買ったりはしてくれても、日本語が全くダメなので一緒にいてニコニコしているだけです。あとは日本人の女性が、通訳という名目で事実上のガイドをしてくれました。

アルハンブラ宮殿は外から見るとまるで要塞で、外装にはほとんど装飾がなく、威厳のある佇まいですがシンプルな感じです。それに比べ、室内には細かな装飾が数限りなく施してあり、素晴らしいの一言です。今はがらんどうですが、当時は絨毯や多くの調度品があって、もっと賑やかで温かい雰囲気になっていたのでしょう。アラブの壺や水差しなども飾ってあったかもしれません。

イスラムは偶像崇拝が禁じられているせいか、動物など具象的な装飾はなくすべて幾何学模様です。「アラーは偉大である」という文字が、装飾の一部として至るところに入れてあります。今から600年以上前に作られたとは思えないほど、精緻な模様です。

国王の謁見の場所である「大使の間」では、大西洋横断に出発する直前のコロンブスが、カトリック両王(イサベルとフェルナンド)と会っています。500年ちょっと前・ナすが、それと同じ部屋の中に立っているかと思うと、感慨深いものがあります。

アルハンブラ宮殿から北の方を見ると、斜面に白い家が立ち並んでいるグラナダの旧市街が見渡せます。白い家は、日干しレンガを積み重ねて外側に石灰を塗る、そういったアラブ人の家の作り方が、アンダルシアの気候風土に合っていたため、スペイン人にも広がっていったものです。白い家のことをスペイン語でカサ・ブランカと言いますが、モロッコの最大都市カサブランカも、ここから来ています。白い家は、地中海と空の青さにとてもマッチしていて美しいです。

アルハンブラ宮殿を出て渓谷沿いに少し歩き、次はヘネラリーフェ離宮と庭園の見学です。ヘネラリーフェの建築物は、14世紀初頭に作られた王族のための夏用の離宮で、内側にも外側にも庭園が広がっており、とても美しいところです。アルハンブラ宮殿の北側に渓谷を挟んで建っており、宮殿からもよく見えます。また、ヘネラリーフェ側から見ると、今度はアルハンブラ宮殿がちょうど渓谷の上に建っているように見え、お互いに眺めはとても良いです。

ヘネラリーフェ離宮の中庭には、バラ・ダリア・ナスタチューム・マリーゴールド・アガパンサス・ジニア・ペチュニア・センニチコウなど、植えられている草花は日本とあまり変わりがありません。ただ、さすがにこの暑くて乾燥した気候には、いずれの草花もバテ気味でした。

5.ロンダ


朝、グラナダを出発し、渓谷の崖の上にある町、ロンダに向かいました。ロンダは、グラナダからさらに西南西にあり、ジブラルタル海峡まであと100kmぐらいのところです。

ロンダは、ローマ時代からすでに都市が形成されており、西ゴート、イスラムの時代、スペイン王国の時代と、歴史を重ねてきました。そして、後ウマイヤ朝が崩壊し小さな太守国が乱立した11世紀に、現在の旧市街の歴史的な外観の大部分が作られています。そのため、旧市街はアラブの雰囲気が色濃く残っています。

他に、ロンダは闘牛が始まったところとしても有名です。闘牛は、本来は復活祭(イースター)における神・ヨの生贄であり、昔は娯楽というよりも神聖なものでした。それが、騎士道などの影響もあって、しだいに人々の娯楽のひとつとなってきたもののようです。ただ、動物愛護の観点から、特にスペイン以外の国の人々が反対しており、テレビでの放映をやめるなど、最近はスペインでも下火になりつつあるようです。

ロンダの町の街路樹は、オレンジ(観賞用)の木が多いです。いろいろな店が立ち並んでおり、バレ(喫茶店)もたくさん開いています。旧市街をずっと通り抜けて、最後にヌエボ橋という旧市街と新市街をつなぐ橋のところに着きました。ヌエボ橋は、イスラムの時代に最初作られ、キリスト教国となってから再建されたもので、ヌエボはスペイン語で新しいという意味(フランス語のヌーボー)です。高さ100mぐらいある大きな石橋で、何百年も前によくこんな大きな橋を作ったものだと思います。

ヌエボ橋を渡って帰ってきた後、あちこち散策して旧市庁舎を改装したパラドールの前に集合。それから、昼食会場へ向かいました。昼食はロンダのドナ・ペパという店で、メニューはソパ・デ・アホ(ニンニクのスープ)、フリットス・カラマレス(イカのリングフライ)、エラド(アイスクリーム)です。

スペインでは、料理の名前にアホ(ajo)という言葉がよく出てきます。アホはニンニクのことですが、さらには牛のことをバカ(Vaca)と言うそうです。バカは生きた雌牛のことで、牛肉はまた別の単語のようですが、アホとバカの組み合わせは、日本人にとってはなんだか面白いですね。

この店で、ヘレス(シェリー酒)を飲んでみました。ヘレスの中でもフィノ(辛口)です。辛口だと言っても、もともとは白ワインだからか、わずかに甘みがあります。それなのに、ブランデーのようなちょっと不思議な香り。何だか、スペインの香りですね。となりの女の子たちはサングリアを注文していました。サングリアは、赤ワインにオレンジやリンゴなどがいっぱい入っている飲み物です。一口だけもらいましたが、果汁で少し薄まっているせいか、アルコール度数はかなり低い感じで飲みやすいです。

6.コルドバ メスキータ


昼食後、ロンダを後にして、バスでコルドバへ向かいました。次の観光目的であるコルドバ市内のメスキータに着いたのは、一日のうちで一番暑い夕方の4時頃で、気温はやはり40度ぐらいありました。アンダルシアの8月は最高気温38〜40度が普通で、42〜3度ぐらいには平気でなってしまうようです。もちろん乾燥気候なので、体感温度はそれほどでもありません。

コルドバの歴史は古く、ローマの属州ヒスパニアだった頃の寺院や橋の遺跡が、あちこちにあります。後ウマイヤ朝の首都となった8世紀以降は、レコンキスタまでイベリア半島の中心となっていた都市で、10世紀には100万人を超えるヨーロッパ最大の都市であり、文化的にも科学技術的にも、当時の世界最高水準の都市でした。

バスが駐車場に着くと、川の対岸に、すでにメスキータが見えています。バスを降りてメスキータに向かいますが、まずグアダルキビール川にかかるローマ橋を渡ります。この橋は、2000年前のローマ時代に作られたもので、戦争で何度か一部が破壊されたり修復されたりしているものの、2000年間現役で使われているというのはすごいです。最近までは車も通って良かったという話ですから驚きです。

グアダルキビール川は、真ん中が湿地帯になっており、ラムサール条約で水鳥が保護されています。北アフリカから飛んできたフラミンゴもときどき見られるそうです。ただ、フラミンゴのオレンジ色は食べ物の藻類に含まれるカロテノイドのせいで、スペインに来ると真っ白になるそうです。

ローマ橋を渡り、プエンテ門(プエンテはスペイン語で橋の意味)をくぐると、メスキータはもう目の前です。コルドバのガイドさんは、ややスリムなスペイン女性でした。ガイドさんがチケットを買ってきてくれて、まずオレンジの中庭に入ります。上の方を見上げると、礼拝の呼びかけ(アザーン)を行うための塔、ミナレットがそびえ立っているのが見えます。外から見れば、明らかにモスクです。

メスキータ(スペイン語でモスクの意味)は、西ゴート王国のサン・ビセンテ教会をイスラムの王が買い取り、784年から建設が始まりました。そして、10世紀まで何度も増改築が行われ、しだいにイベリア半島に住んでいるイスラム教徒の総本山である大モスクとなりました。しかし、経緯はよくわかりませんが・A侵略して支配者となったのに、お金を払って買い取ったというのは、アラブの王様の懐の深さなのでしょうか。

メスキータ内の広大な空間は、無数の柱が立ち並ぶ祈りの場であり、25000人のイスラム教徒が同時に祈りを捧げることができました。柱の上の方を見ると、赤いレンガと白い石灰岩を交互に配した二重アーチのデザインが美しいです。また、アルハンブラ宮殿と違って、建物の外側にも無数の装飾があります。

レコンキスタ後の16世紀、メスキータはカルロス1世の命で大聖堂に改造されました。メスキータの真ん中に巨大な祭壇、聖歌隊席、身廊(信者の座る席部分)があり、パイプオルガンもあります。このゴシック様式で作られた聖堂部分は、それなりに素晴らしいものですが、何だか人を威圧するような激しさや冷たさを感じさせます。

ガイドさんは、「今はモスクではなく聖マリア大聖堂です」としきりに言いますが、いかにもモスクと思われる建物の内部の一部に、キリスト教の祭壇が置いてあるという感じで、かなり違和感があります。メスキータ全体を包んでいるイスラム時代の知的で穏やかな雰囲気の方が、ずっと私の好みに合っています。もちろんキリスト教が良くないということではなく、モスクの中に聖堂を作ろうとすれば、こうせざるを得なかったのだと思います。

メスキータを出た後、ガイドさんに連れられて、すぐ北側にあるユダヤ人街の散策に行きました。ユダヤ人街と言っても何世紀も昔の話で、現在はユダヤ人はほとんど住んでいないそうです。有名な花の小径も通りましたが、花と言ってもほとんどがゼラニウムで、それもあまりきれいには咲いていません。

ユダヤ人街を歩いて行くと、12世紀にヨーロッパで初めて白内障の手術をしたユダヤ人、モハメド・アル・ガフェキー(MOHAMED AL-GAFEQUI)の銅像がありました。彼は眼鏡も発明したという話で、スペイン語で眼鏡のことをガファス(gafas)と呼んでいます。実際には、初めて白内障の手術を行ったのはギリシアのガレノスだと思いますが、コルドバは当時ヨーロッパで最も進んでいた都市でしたし、日常の仕事として手術が行われていたということかもしれません。

7.ラ・マンチャ


朝、コルドバからバスで移動開始。アンダルシア地方のコルドバからラ・マンチャ地方を通っ・ト、カスティーリャ地方のマドリードに向かいます。ラ・マンチャは、マドリードの南側に広がる乾燥した平原で、アンダルシアよりはやや標高が高く、風が強いことで有名です。バスの車窓から見ていると、バレンシアからアンダルシアでは、オリーブ畑以外もオレンジ、ブドウ、トウモロコシ畑などがたくさんありましたが、コルドバを過ぎてラ・マンチャに入ってくると、オリーブ畑以外ほとんど目にすることが無くなってきます。

オリーブは痩せている乾燥した土地でも育つ、便利な作物です。アンダルシアは白っぽい土が多く、ラ・マンチャに入ってくると赤茶けた土に変わってきますが、いずれにしても非常に乾燥した土地であることには変わりありません。キリスト教では、オリーブは神聖な植物として扱われていますが、これはどんな時でも人々に恵みをもたらしてくれるありがたい植物だからということなのでしょう。

オリーブ畑の間には、たまにヒマワリ畑もありました。こちらのヒマワリは食用で、種をそのまま食べるか、食用油にするものですが、花の季節は日本と違って6月頃に花が咲き、7〜8月に収穫します。ですから、大部分のヒマワリ畑は収穫直前、つまり枯れて茶色になっており、よく見ないと何が育てられているのかわからない感じです。ただ、クエンカにゆく途中は、気温が低いのか品種が違うのかわかりませんが、きれいに咲いているヒマワリ畑もありました。

このコルドバからマドリードに向かう道は、平行にスペインの高速鉄道のAVEが走っています。スペインでは、1492年はレコンキスタが完成した年であり、しかもコロンブスが新大陸を発見した年でもある非常に重要な年です。1992年はそのちょうど500年後にあたり、スペインではそれを記念して、1992年にバルセロナ・オリンピックとセビリア万博を開催しました。AVEも、その万博に合わせて、マドリードセビリア間に開通させたものです。ただ、今回の旅行では、乗るチャンスが無かったのが残念です。

8.ドン・キホーテ


昼頃、プエルト・ラピセという小さな町に到着しました。この町にはVENTA DEL QUIJOE(ベンタ・デル・キホーテ)という有名な宿屋があります。ドン・キホーテの物語の中では、彼がナイトの称号をもらったときに、祝賀パーティをこの宿屋で開いたことになっています。また、物語の話だけでなく、実際に16世紀にセルバンテスがその宿にしばらく滞在していたそうです。

現在は、その宿屋に泊まることはできませんが、まだレストランとして実際に使われているから驚きです。我々もそこで昼食を食べることになっていました。メニューは、ソパ・デ・ピカディーリョ(ハムと卵のスープ)、カマチョ(チキン・ミートボール煮込み)、花型パイとアイスクリームです。これらは、ドン・キホーテが開いた祝賀パーティに出てきた料理を再現したものだそうです。

料理の味はともかくとして、16世紀にセルバンテスが滞在していたのと同じ宿屋で食事ができるというのは、本当に歴史を感じます。その宿屋を文化財として保存するというより、観光に使ってしまっているところもスペインらしくて面白いです。道をはさんで宿屋の反対側には、サンチョ・パンサの店というみやげ物店があります。目の前にありながら、ベンタ・デル・キホーテよりも品物の値段が2〜3割安いです。

このラ・マンチャ地方は16世紀の風車が数多く残っています。風車は、神聖ローマ帝国皇帝を兼ねていた国王カルロス1世が、宗教革命に関わる戦争でオランダに行ったときに風車を見て感激し、これを自分の国にも作ろうと考えたのが始まりでした。確かに、ラ・マンチャ地方は風が強く風車を作るのには適したところだったのですが、乾燥地帯で汲み上げる水もなく、穀物が育たないので粉にするものもなく、実際には無用の長物でした。16世紀には1000基ぐらいあったそうですが、現在は数十基しか残っていません。

ドン・キホーテ物語の中で、ドン・キホーテが風車を邪悪な巨人と間違えて突進するくだりがありますが、これはカルロス1世が無駄な風車をたくさん作らせたことを、セルバンテスが風刺しているものです。バスの中からも、丘の上に16世紀の風車がいくつか残っているのが見えていました。

また、別の丘の上には風力発電の巨大な風車がたくさん建っていました。ここは年間を通じて非常に風が強い地域であり、風力発電の立地条件は良いわけで、皮肉なものです。現在、スペインでは、発電のシェアは風力がトップで、2位が火力、3位が原子力という状況です。スペインは、自然エネルギー発電に関しては世界でトップクラスの国でもあります。

9.クエンカ


クエンカはスペインのメセタ(中央台地)の東の端にあり、フカール川とウェルカル川の渓谷に挟まれた自然の要塞で、地中海方面からの出入りを固める古くからの地理的な要所でした。9世紀にイスラム教徒が要塞都市を築いたのですが、レコンキスタでキリスト教徒が奪回しました。そのため、イスラム系の建物が随所に見られます。

バスを降りて、まずウエカル川沿い渓谷の反対側を歩きました。こちらからはクエンカの旧市街が見渡せます。少し歩くと、パラドールが見えてきます。パラドールは、古い歴史的建造物を改装して宿泊できるようにした国営ホテルで、スペインに93ヶ所あります。このパラドールも、16世紀に建てられたゴシック様式の旧サン・パブロ修道院を改装したものです。パラドールに近づくと、有名な宙吊りの家が川向こうに見えてきます。

ここで、サン・パブロ橋を渡り、クエンカの旧市街に入って行きますが、この橋は吊り橋に近いような幅の狭い鉄橋で、渡るのには多少の恐怖感があります。橋を渡ると、有名な「宙吊りの家」は目の前です。

「宙吊りの家」とは、渓谷の端に建っている家から谷の方へ木製のバルコニーが張り出して作られており、まるで断崖の上に出窓があるような感じに見えるので、そう名付けられています。4階建ての小さな建物ですが、15世紀に作られ、現在もレストランとして使われ、数年前まではそのバルコニーに座ることも出来たという話ですからすごいです。

そこから丘の方へ上がって行くとマヨール広場に出ます。この広場に面して大聖堂(ゴシック様式、12〜13世紀)や旧市庁舎の門があり、お店もあるので観光客がたくさんたむろしています。広場から細い道を入ると、明らかにイスラム系と思われる建造物があり、この町の歴史の古さを感じます。旧市庁舎の門をくぐって坂を降りて行き、再びウエカル川沿いの道に戻り、バスに乗りました。

ここからバスでマドリッドへ向かいます。スペインの中部・南部はとても乾燥した土地です。バスの車窓から見ていると、バレンシアはオリーブ畑にオレンジ畑や食用のブドウ畑が混じっている感じ、アンダルシアでは大部分がオリーブ畑でしたが、ラ・マンチャで・ヘ、オリーブ畑の中にヒマワリ畑もときどき見かけました。そして、ラ・マンチャからマドリードのあるカスティーリャに入ってくると、オリーブ畑はあるものの、牧草地とワイン用のブドウ畑の方が多くなり、風景がかなり違ってきます。

バレンシアのブドウ畑の多くは食用のブドウで、ブドウは棚で作られていますし、バレンシアやアンダルシアにたまに見かけるワイン用のブドウ畑は、木立で作られていました。しかし、ラ・マンチャに入ってくると、ワイン用のブドウが地面を這うようにして育てられています。乾燥が強いので、地面の水分が逃げないようにするためだそうですが、不思議な育て方です。ブドウの房は地面に転がって実っているんでしょうか。

10.マドリード プラド美術館


朝、ホテルを出てバスで出発。今日のガイドさんもスペイン人でしたが、伊勢志摩のパルケ・エスパーニャで陶芸を教えていたという経歴があり、日本語はペラペラで、説明も非常に上手でした。マドリッドの人ではなく、トレドの新市街に住んでいるそうで、美術系の大学を出ているようです。そのガイドさんと一緒に、まずマドリッドのプラド美術館に行きました。

プラド美術館は1時間ぐらいしか見学時間がなかったので、スペインを代表する3人の画家、ゴヤ、ベラスケス、エル・グレコの絵を中心に見ました。ゴヤは「着衣のマハ・裸のマハ」や「マドリード1808年5月3日」、ベラスケスは「ラス・メニーナス」や「ブレダの開城」、エル・グレコは「羊飼いの礼拝」や「胸に手をおく騎士の肖像」など、本や教科書でよく目にする有名な絵がいっぱいありました。

このあと、旅行社のツアーによくあるパターンで、美術館の前にある免税店に行きました。免税店に30分も時間をとるのなら、もっと美術館を見たかったのに残念です。もっとも、添乗員さんの話では、日本人のツアーでも、最近は免税店へ行く頻度は極端に減っており、店の数も減ってきているそうです。日本人も海外旅行慣れしてきたのでしょう。

妻や子供たちはその店にいましたが、私はプラド美術館の周りの散策に出かけました。プラド美術館の外周りをぐるっと一周した後、となりにあるロス・ヘロニモス教会を見に行きました。この教会はゴシック様式のとても立派な建物で、スペイン国王の戴冠式が行われるところだそうです。また、戦国時代に日本から行った天正遣欧使節団の少年たちが、この教会で当時の国王フェリペ2世に謁見しており、日本とも関連のある教会です。

11.トレド旧市街


午後はトレド旧市街の観光です。トレドは、マドリードから南へ70kmのところにある人口8万人弱の都市で、325万人のマドリード市と比べるととても小さいですが、古くは西ゴート王国の首都(560〜711年)だったところです。その後イスラム圏の後ウマイヤ朝に占領されたものの、11世紀頃から1561年にマドリッドが首都になるまで、トレドは再びカスティーリャ王国やスペイン王国の中心的な都市でした。

旧市街は、建物の土台部分にはイスラム時代のものも多く残っており、また、イスラム的なデザインを持ったキリスト教系建築(ムデハル様式)もあり、レコンキスタにまつわる古い歴史が感じられます。また、15世紀頃からほとんど町の風景が変化していないというのも驚異的です。

まずは、バスでタホ川の反対側にある展望台へ行きました。そこからはトレドの旧市街が一望でき、素晴らしい眺めです。トレド大聖堂とアルカサル(スペイン語で城の意味)が、遠くからでも丘の上の方に一段とそびえ立っているのが見えますし、周囲を囲むようにして流れているタホ川の眺めも絶景です。

次に、バスはバスターミナル付近まで進み、そこで皆降りました。住民以外の車は旧市街を通行できませんので、ここからは徒歩です。大聖堂は、見上げるとかなり上の方にあり、坂を登るのが大変かと思いましたが、少し歩くとエスカレーターがあって、それをいくつか乗り継いでゆくと、町の中心部であるソコドベール広場に出ました。

この広場付近の道は商店街になっているのですが、閉まっている店が多くあります。ガイドさんの話では、ちょうどシェスタ(スペインの昼寝時間)で休憩中とのこと。スペインは観光地でもシェスタをとっている国なんですね。そして、細い路地をずっと歩いて行くとトレド大聖堂に出ます。

トレド大聖堂は1226年から建築が開始され、1493年、つまりレコンキスタが完成しコロンブスが新大陸を発見した年の翌年に完成した、ゴシック様式のカテドラルです。ただ、ゴシッ・Nと言っても、イスラム建築の影響を受けたムデハル様式の部分も随所に見られます。ここは、スペインカトリックの総本山で、トレド大司教はローマ法王の次に偉いのだそうです。

大聖堂の中に入って見学しましたが、ステンドグラスが美しい、素晴らしい聖堂です。聖具室にはエル・グレコの「聖衣剥奪」や「十二使徒」などの有名な絵画が飾られており、16世紀からの歴代の大司教の衣装も展示してあります。

トレド大聖堂の後、少し歩いて、ゴヤの最高傑作とされる「オルガス伯の埋葬」のあるサン・トメ教会に行きました。この教会は、モスクを14世紀に改造したもので、確かに塔はミナレットそのものです。「オルガス伯の埋葬」は門外不出(壁にはめ込んであるので当然ですが)のため、ここでしか見ることができません。

その後ずっと歩いて、タホ川にかかっているサン・マルティン橋を渡り、旧市街の見学を終えました。このサン・マルティン橋も、町の反対側にあるアルカンタラ橋とともにローマ時代からある橋ですし、何気なく通り過ぎた建造物のひとつひとつは、すべて歴史を感じさせます。

12.フラメンコ


一度ホテルに帰って休憩した後、再びバスでマドリード中心部へ、夕食付きのフラメンコショーを見に行きました。フラメンコは、ヒターノ(スペインジプシー)とベルベル人(北アフリカ、イスラム系)の音楽が融合してできたものと言われています。添乗員さんの話では、「流浪の民であったジプシーがグラナダで定住するようになった。彼らは大家族で住んでおり、自分たちの家族のアイデンティティーを保つために、それぞれの家族が歌と踊りを持っていた。異なる家族同士のパーティーでは、そこで互いに自分たちの歌や踊りを披露したのだが、ある意味では「集団お見合い」のような性格も持っており、セクシーな動作もそれに起因している。その歌と踊りに目を付けたセビリアの興行師が、きれいな衣装を着せ、歌や踊りにストーリー性を持たせて、カフェ・カンタンテやタブラオなどの飲食店で興行したところ非常に評判がよく、それが発展していったのが現在のフラメンコである。」だそうです。

フラメンコの音階はスパニッシュ8ノートスケールと呼ばれ、フリーギアン・Xケールに長3度の音を追加したものとされています。スケールとしてはフリーギアンとハーモニックマイナー・パーフェクトフィフスビロウを織りまぜて使っている感じですが、途中の音を飛ばすことによって増2度の音列を作り、それでエスニックな雰囲気を作っています。

ヨーロッパ人は、増2度の音程がスケールにあるとエスニックな印象を持つのですが、確かにアラビックスケールもジプシースケールも音階の中に増2度が2回出てきます。ただ、フラメンコのスケールは、そこまで露骨に増2度を使っておらず、もう少しヨーロッパ的なのかもしれません。

ややこしい話はさておき、食事の後、フラメンコショーが始まりました。ギターが2人、歌が2人、踊り手が5人。踊り手も、休んでいるときは手拍子・足拍子でリズムを支えます。まず驚いたのは、衣装がフリルのたくさんついた派手なものではなかったことと、カスタネットを持っていなかったことです。

衣装も普段着的な民族衣装で、踊りも優雅なものではなく、激しくリズミックで、タップダンスに近いテクニックも使っていました。コンサートホールではなくライブハウスに近い感じの店ですので、息遣いも荒く、汗もたくさんかいているのが見えます。あれだけ動いたら、とても1曲しか踊れませんね。手拍子と足拍子もすごいです。ここまで激しいリズムの音楽だとは思いませんでした。歌もうまいしギターもすごいし、ショーの1時間があっという過ぎてしまいました。

以上、実質6日間のスペイン滞在でしたが、あっという間に過ぎてしまいました。走行距離は合計すると2121kmで、名古屋から北海道の旭川まで往復したぐらいの距離です。旅行としては移動距離がかなり長く、やや疲れましたが、運転手さんはもっと大変だっただろうと思います。