あゆちの水 H30年
瑞穂区医師会の活動拠点となっている瑞穂区休日急病診療所ですが、瑞穂区の中央を南北に流れる山崎川のほとりにあります。建物の前を流れる山崎川は、「日本さくら名所100選」にも選ばれている有名な桜の名所で、桜の季節になると、お花見ウォーキングの人で非常に賑わいます。そんな瑞穂区休日急病診療所の南200mぐらいのところに、愛知(あいち)の語源と関連した史跡があるので、ちょっとご紹介したいと思います。
瑞穂区は、今でこそ名古屋市の中ほどに位置していますが、500年ぐらい前までは、瑞穂区のすぐ南側には海が広がっており、古代から中世には年魚市潟(あゆちがた)と呼ばれる干潟になっていました。この海岸線に沿って、鎌倉街道・東海道・岡崎街道などの主要な街道がひらけ、多くの人が行き交う交通の要所ともなっていました。足利尊氏が京へ上洛したときもこの道を通って行きましたし、戦国時代、織田信長が桶狭間の合戦に向う途中、井戸田(瑞穂区南西部)から海越しに、鳴海城横の鷲津砦から火の手が上がっているのが見え、軍勢のルートを変更したとの記録も残っています。
話はさらにさかのぼりますが、奈良時代、瑞穂区休日急病診療所のすぐ南のあたりに、「あゆちの水」という泉がありました。きっと年魚市潟(あゆちがた)とともに、「あゆち」はこのあたりの地名だったのでしょう。今でも小さな石碑と古井戸が残っていますが、旅人の往来が多いところですから、きっと泉のわきで多くの人々が休憩したことと思います。そして、この「あゆちの水」は、万葉集の中で以下のように詠まれています。
巻13−3260
小治田の 年魚道の水を 間なくぞ 人は汲むといふ 時じくぞ 人は飲むといふ 汲む人の 間なきがごと 飲む人の 時じきがごと 我妹子に 我が恋ふらくは やむ時もなし
(大意)
小治田(おわりだ)の年魚道(あゆち)の水を、人は絶え間なく汲み、人はいつもそれを飲むという。汲む人が絶えないように、また、呑む人が常にあるように、私の妻(恋人)を恋することも止むことがない。 |
愛知県の名前は、明治5年、名古屋城下町のあったところが「愛知郡」に所属していたことに始まるものですが、愛知郡自体は、中世どころか奈良時代の律令制度の頃からずっとありました。豊臣秀吉も愛知郡中村の生まれとの記録がありますし、最も古いものは、平城京出土木簡に「尾張国愛知郡」と書かれているものがあります。
この「小治田の年魚道の水(尾張田のあゆちの水)」を詠んだ歌以外にも、年魚市潟そのものが出てくる歌が万葉集に2つありますが、愛知郡の名称は、「年魚市潟」や「あゆちの水」など、このあたりの地名に由来していると言われています。
休日急病診療所へ出務するときに、私はこの「あゆちの水」の横を通ることがありますが、1300年前に、この泉の傍らで休憩して水を飲んだ旅人が、妻のことを思い出していたんだなと思うと、何だか感慨深いものがあります。