猩々大人形 H26年
名古屋東南部地域(緑区・南区・瑞穂区)には、「猩々(しょうじょう)」と呼ばれる大人形が、お祭りの時に登場します。竹で作った胴体の枠組みに赤い顔の頭を付け、それに着物を着せて上からかぶるもので、遊園地に出てくる人気キャラクターの着ぐるみのようなものですが、実は250年以上前の江戸時代中期からある伝統芸能のひとつなのです。
猩々は、もともとはお祭りで神輿行列の先頭を歩く、動くハリボテ人形でした。宝暦7年(1757年)の「尾陽村々祭礼集」という文献の中には、現在の鳴海町の下中町内(昔の鳴海村中嶋町)で、猩々が祭礼行列に加わっていたという記録が残っていますし、高力猿猴庵が書いた「鳴海祭礼図」には、安永7年(1778年)の猩々の姿が、カラーの絵入りで詳細に描かれています。
江戸後期から幕末になると、鳴海村だけでなく、周辺の村にもこの猩々大人形は広がって行き、明治後期には現在と同じような形になって行きました。東海道に沿って、北西方向に星崎・笠寺・富部・津賀田・伝馬町へ、南東方向に有松・桶狭間・大高・大府・豊明方面へと広がって行き、知多街道に沿って、南方向に名和・荒尾・富木島の方へと広がって行きました。緑区大高の猩々は弘化4年(1847)、豊田市中根の猩々は慶応3年(1867年)と、製作年代のはっきりしている古い猩々も、あちこちに残っています。
この猩々大人形の普及には、地元の酒造業が大きく関係していたと言われています。尾張地方は江戸時代から酒造業が盛んな地域で、享和2年(1802)のデータでは、摂津(つまり灘の酒)に次いで、尾張は全国第2位の酒生産量を誇っていました。鳴海村はその重要な生産拠点のひとつでしたが、大高・東海市北部なども昔から酒造業が盛んだった地域で、南区〜瑞穂区にかけての地域以外は、ほとんど酒造業の分布と猩々の分布が一致しています。猩々は「赤い顔をした陽気な酒の神様で、親孝行のシンボル」という良いイメージの福の神様です。裕福な地元の酒造業者は、地域の祭りの重要な寄進者だったでしょうから、酒の神様でありかつ福の神である猩々の普及が酒造業と関連していることは、当然のことなのかもしれません。
猩々の役割は、古くは祭礼の行列を先導することが主でした。しかし、お祭りの長い1日の中で、祭礼行列の時間は少しだけで、暇な時間は子供たちと遊んだりしているわけです。そして、いつしか「猩々にお尻を叩かれた子供は、その1年は病気にならない」という言い伝えができ、しだいに猩々は「子供たちを病気から守る神様」という側面が生まれてきました。
医学が未発達な時代には、病気を治したり、疫病の流行を止めたりするのには、呪術的な方法に頼るしかありませんでした。疫病の中でも特に疱瘡(天然痘)は、ひんぱんに流行を繰り返し、一般庶民には非常に恐れられていました。この病気は疱瘡神がもたらすものと考えられていましたが、それに関わる俗信のひとつに「疱瘡神は赤い色が嫌いである」というものがありました。ひとたび疱瘡患者がでると、疱瘡神を追い払うため、病人の身の回りはすべて赤色づくしにするという、涙ぐましい努力が行われました。また、子供を疱瘡から守るため、枕元に赤い人形を置いたり、赤絵と呼ばれる赤一色に刷られた錦絵を飾ったりしました。
このような民間信仰をベースに、顔の赤い猩々は、しだいに「疱瘡の魔よけの神様」としての役割も、担うようになって行きました。本来は病気とは関係の無い神様だったはずなのですが、顔が赤いという一点で「病気を防ぐ神様」に進化し、さらに「お尻を叩くことで子供たちを病気から守る神様」になってしまったというわけです。
お祭りの空いた時間には、猩々と子供たちの遊びが始まります。子供たちは、猩々に向かって「猩々のバカやーい」とからかったり、後ろからつついたりけとばしたりして挑発します。すると、猩々は急に振り向いて、持っている団扇のようなもので子供のお尻を叩こうとします。後は、猩々と子供たちの追いかけっことなり、お祭りの楽しい時間が過ぎてゆきます。ただ、傍から見ていると、ほのぼのとした光景なのですが、猩々自体は10キロ以上の重さがあり、かぶっている人は汗だくです。
名古屋市内も、都市化によってだんだん民俗芸能は衰退傾向にありますが、このような子供たちに人気の高いものは、これからもずっと生き残って行くような気がします。