藤原師長

藤原師長 R2年

瑞穂区医師会の活動拠点となっている瑞穂区休日急病診療所は、瑞穂区の中央を南北に流れる山崎川のほとりにあります。住所は「瑞穂区師長町9−3」ですが、今回はこの「師長町(もろながちょう)」という地名のいわれをちょっとご紹介したいと思います。

今から840年前の平安時代末期に、藤原師長(ふじわらもろなが)という貴族がいました。有名な藤原頼長の息子で、律令官制ではトップの太政大臣を務めていましたが、政敵である近衛基通との確執のせいで平家との衝突を招き、平清盛のクーデター(治承三年の政変)が起こると、清盛によって太政大臣を解任され、尾張国井戸田に流罪となりました。

その尾張国井戸田は現在の瑞穂区南西部にある井戸田町にあたり、その屋敷跡は、今でも「「師長公謫居跡」という史跡として残っています。彼はしばらくそこで謫居し、3年後には赦されて京に帰るのですが、その間は京のことを思いながらのんびりと暮らしていました。

師長は、「三五要録」という琵琶に関する書物も書いているような琵琶の名手でしたから、屋敷の中だけでなく、暇なときにはあちこちに出かけ、青空の下で琵琶を弾いていました。ちょうど井戸田から東北へ約2kmのところに「琵琶ヶ峯」という景勝地があり、特にそこへよく出かけて琵琶を弾いていたようです。彼が琵琶を弾くと、その音色が熱田神宮まで届いたとか、琵琶を弾いていると宮路山の水神が現れたとか、いろいろな逸話が残っています。

話が遠回りになりましたが、この「琵琶ヶ峯」は、現在の瑞穂区師長町付近、つまり瑞穂区休日急病診療所のあたりと考えられており、現在の地名も彼にちなんで付けられています。診療所の南200メートルにある雑木林の中に「琵琶峯」という石標がありますが、このあたりは八事台地の南西端から山崎川へ向かう斜面に位置しており、きっと昔は川のせせらぎと山の緑のある風景の美しいところだったと思われます。師長のことを考えながら休日急病診療所の周りを歩いていると、何故か琵琶の音色が聞こえるような気がして、不思議な気持ちになります。

師長に由来する地名は他にもあり、出家してからの法名「妙音院」は、新瑞橋から西に向かう大通り「妙音通」にその名が残っていますし、清須市〜名古屋市西区にある「枇杷島」という地名も、師長の愛器「白菊の琵琶」にちなんでつけられたものです。これには、師長と井戸田村村長の娘との悲しい恋の物語が関わっているのですが、その話はまた別の機会に譲りましょう。