BRUNO WALTER HOME PAGE

新聞の演奏評

◆1900/11/13(Berliner Borsen-Zeitung 1900/11/15)

「ベルリン・トーンキュンストラー管弦楽団は、“ドイチェス・ホーフ”で開かれた第二回定期演奏会において、優れた指揮者ブルーノ・ワルター氏と、優れたソリストであるヴィリー・ブルメスター氏を迎えていた。」
ワルター氏は強い暗示力を有しており、オーケストラを力強い盛り上がりや、陶酔的な高まりへと導くことができる。しかしながら、こうした盛り上がりに至る細部の構築には、今のところ必要な時間が
不足していたかもしれない。というのも、彼がこのオーケストラの指揮を引き受けたのはごく最近のことで、指揮者と楽団との関係も、まだワルター氏の暗示力や、瞬間の魔力が及ぼす範囲にとどまっている
からである。ヴィリー・ブルメスターはかつてないほど美しく演奏した。彼は、聴くたびに「これまでとはまるで違う」と思わせるような演奏家の一人である。
プログラムの新作――ハンス・プフィツナー作曲《愛の花園のばら》より「葬送行進曲」は、かなり冷淡に受け取られた。聴衆は、この「音楽らしからぬ響き」から何を感じ取るべきか分からなかったし、
正直に言って私にもよく分からなかった。作曲家は、「それは聴衆や私のせいだ」と思うかもしれない。彼が正しいかもしれない。しかし、聴衆も私も、もしそれが主観的に音楽のように聞こえず、
また主観的に音楽的または詩的な印象や感情を呼び起こさないのであれば、それを音楽と見なさない権利が、同じようにあるはずだ。

◆1909/12/8(The Times 1909/12/9)

フィルハーモニック協会
チャイコフスキーの《悲愴交響曲》が昨夜の協会の演奏会の前半を占め、この作品をワルター・ブルーノ氏の指揮で演奏したのは、今日ではこの交響曲が与えるセンセーショナルな効果が十分に引き出され
尽くした時代にあっても、きわめて注目すべきものだった。第1楽章の展開はとりわけ印象的であり、フィルハーモニック管弦楽団の弦楽器が持つ驚くほど豊かな響きを最大限に活かしつつ、指揮者はこの楽団の
演奏では必ずしも常に感じられるとは限らないリズム的なエネルギーを引き出していた。行進曲のクライマックスも見事に築き上げられ、作品全体にちりばめられた多くの情熱的な頂点のいずれもが見事に
捉えられていた。一方で、素朴な第2楽章は他の楽章ほど説得力がなく、そのリズムはやや硬く融通の利かないものに感じられた。この楽章は作曲者がある程度の「含み」を残している唯一の部分だが、
昨夜の演奏ではあまりにも明確すぎて、ほとんど平凡に響いた。後半では、キャスリーン・パーロウ嬢がゴルトマルクのイ短調ヴァイオリン協奏曲を演奏し、その率直で飾り気のないスタイルで聴衆を魅了した。
以前に聴いたときよりも技術的な制御力が向上したようで、演奏全体が非常に完成度の高いものであったため、たとえ音楽そのものがそれほど興味深いものでなかったとしても、この協奏曲を聴くこと自体が
大きな喜びであった。フレデリック・オースティン氏はエセル・スマイス嬢の歌曲を2曲歌い、作曲者自身が指揮をした。演奏されたのは、美しい《クリシラ》と《アナクレオン頌歌》であり、オースティン氏はこれらを
驚くほど力強く歌い上げた。演奏会の最後はリストの交響詩《マゼッパ》で締めくくられた。

◆1914/11/23(Berliner Borsen-Zeitung 1914/11/24)
芸術と学問
有名なウィーンのオペラ・テノール歌手レオ・スレザークは、今冬すでに一度ベルリンでその声を披露していたが、昨日、フィルハーモニーに再び登場し、ベルリンの聴衆の前に姿を現した。
今回はもう一人の「客演者」、ミュンヘンのゼネラルムジークディレクター、ブルーノ・ワルターも同時に出演し、フィルハーモニー管弦楽団の指揮を担当した。
ワルター氏は、すでにここベルリンでも指揮者として非常に好意的に受け入れられており、彼が冒頭で演奏したブラームスのハ短調交響曲(第1番)では、その資質が改めて明らかとなった。
彼の動きや全体的な佇まいからはエネルギッシュな官能性が感じられるが、それは常に音楽的知性のコントロール下にあり、どんな過剰表現とも無縁であり、常に音楽の核心に到達するのが
彼の特徴である。この特質は、昨日のブラームスの交響曲、とりわけ終楽章において明確に現れていた。ワルターはこの楽章を、力強く推進する演奏で、壮大なクライマックスへと導いていったが、
それによってベートーヴェン的な性格をもつこのハ短調主題の高貴で広がりのあるパトスを少しも損なうことはなかった。
同様のことは、その後演奏されたシューベルトのロ短調交響曲(いわゆる「未完成」)にも言える。この曲は、ここフィルハーモニーで過去4週間に3度も演奏されたばかりだが、ワルターは第1楽章の
英雄的な要素を際立たせながらも、第2楽章の穏やかな叙情性(アンダンテ)にも十全な注意を払っていた。
シューベルトの交響曲の前後には、スレザークの見事な歌声を堪能することができた。彼が選んだのは、《フィデリオ》から「フロレスタンのアリア」と、《オベロン》からの「ヒュオンのアリア」であった。
《フィデリオ》のアリアは、本来コンサート向きとは言い難いが、それでもこの著名なウィーンのテノール歌手にとっては、自身の高い歌唱技術、とりわけ卓越した音の形成力を聴衆に印象づける
好機となった。一方、《オベロン》のウェーバーのアリアでは、彼の声が完全に輝き渡るさまが見られ、このアリアに特有の弱い着想やドラマとしての脆弱さを忘れさせるほどであった。
当然ながら、演奏後には鳴りやまぬ拍手が続き、スレザークは6回も舞台に呼び戻された。しかしながら、聴衆の熱意にもかかわらず、彼はアンコールには応じなかった。

◆1919/11/1・11/17・11/24(Allgemeine Zeitung 1919/11/30)

ミュンヘンの演奏会
まず私は、音楽アカデミーによる諸聖人の日の演奏会について述べなければならない。アカデミーは教員合唱団とともに、ベルリオーズの永遠に美しい《レクイエム》を上演した。
この作品は、完全に成熟した天才の、もっとも内面的で、もっとも深い感情に根ざした作品である。ここでは形式と内容が完全に一致し、意図されたものがすべて、極めて自然に実現されている。
このような体験は、芸術の中で最も豊かで幸福な喜びのひとつである。
演奏は華麗であった。合唱はエドゥアルト・ツェンガーレによって見事に仕上げられており、ツェンガーレほど、この作品において何が肝要かを理解している者はいない。独唱者のネリー・メルツ、
ルイーゼ・ヴィラー、ポール・マリオン、アルフレッド・イェルガーもすばらしかった(マリオンが声の点と表現の強度においてやや力不足であったのを除けば)。
指揮はブルーノ・ワルターが担い、この作品を非常に高い完成度で導いた。この音楽は、他の何よりもワルターにとって非常にしっくりくるものである。
しかしその少し後に行われたアカデミー演奏会では、残念ながらワルターにはブルックナーがまったく合わないということが明らかになった。むしろこのような演奏をするくらいなら、ブルックナーを
演奏しない方がよかった。オーケストラと指揮者は劇場での過重な活動に疲弊しており、リハーサルもまったく不十分であった。そして何よりも、ワルターがこの作品に精神的に親しんでいないことが
明白で、時にはスコアに対する基本的な理解さえ疑われるほどだった。
だからといって、ブルックナーの交響曲の拙劣な演奏が許されるということにはならない。ブルックナーの作品は、真に偉大で純粋な芸術作品として、優れた演奏によってこそ聴衆の心に届き、
その正当な地位を得るべきものである。このような作品の演奏には、ブルックナーにふさわしい資格を持った解釈者のみが関わるべきだろう。それは、ちょうどワルターがグスタフ・マーラーにとって
そうであるような存在である。ワルターが指揮したマーラーの作品の演奏は、内容の面においても、まさに見事なものであった。ワルターほどこの作品の精神と一体になっている者は他におらず、
またこの作品にふさわしい形で力を尽くせる者も他にいない。私はマーラーについてもっと語りたい(そして近くそうするつもりだ)が、この報告の枠内ではそれを実行することはできない。
したがって、今日はワルターへの心からの感謝とともに、心からのお願いを述べるにとどめたい。それは、ここミュンヘンでマーラーに対してあまりにも俗物的な抵抗がある中にあっても、ワルターがひるまず、
彼の師マーラーのために断固として立ち向かい、そのために真に使命を担っている人物としての役割を果たしてほしい、ということである。

◆1923/9/13(Berliner Borsen-Zeitung 1923/9/14)

「《ドン・パスクァーレ》――『ベルリン・プレス』のための上演。大衆オペラ劇場にて。」
今シーズン最初の、大規模かつ芸術的・社交的な慈善公演が開催された。会場はグローセ・フォルクスオーパー。公演されたのは、「ベルリン・プレス」協会の老後および未亡人年金基金のための
慈善興行として、ドニゼッティの《ドン・パスクァーレ》。この公演は、いわばミュンヘン配役による上演である。会場は満席。というのも、この協会のイベントは、こうした点において伝統的に幸運に
恵まれており、今回も最後の一番高い席まで完売だった。また、「式典的な装い(ドレスコード)」の要請にも皆がこぞって応じたため、会場は非常に華やかな雰囲気に包まれていた。
『ドン・パスクワーレ』は1905年12月にさかのぼる。当時、イタリア・シーズン公演として同じ舞台(※グローセ・フォルクスオーパー)でこのブッフォ・オペラの上演が行われた。
ビニ=コルシがタイトルロール、ボンチがエルネスト、コレデットがマラテスタ、マリア・アレクサンドロヴィチがノリーナを演じ、指揮台にはベルトラン・ゼンガーが立っていた。
それ以来、このオペラは、特にビアバウムとクレー フェルトによる翻案を通して、ドイツの舞台にしっかりと根を下ろし、より偉大なロッシーニの『セビリアの理髪師』と並んで、各地で成功を収める作品と
なった。そしてこの『ドン・パスクワーレ』もまた、グローセ・フォルクスオーパーの活発なレパートリーの中に、確かな地位を築いている。
当然ながら、同劇場のアンサンブルには、既にほぼ古典的な存在となっているマントラーが、タイトルロールの名演者として名を連ねている。この歌手は、ドイツの歌手には珍しいほど、明確な発音を伴う
話し言葉のような歌唱技術を持っており、驚異的な舌の回転力によって、どんなに速いテンポでもすべての音節をはっきりと届けることができる。そればかりか、若くはない今もなお、その広い音域の
力強いバスの響きを保ち、慎重な訓練と確実なテクニックによって、今日においても見本のようなブッフォ・スタイルを体現している。したがって、どんなに要求の高いアンサンブルの中でも見事に存在感を
発揮し、加えて、彼の劇的な演技力が、あらゆる場面に生き生きとしたユーモアを与えている。そして「要求が高い」と言えるアンサンブルには、ノリーナ役にあのイーヴォ・ギュンが、そしてエルネストには
カール・エルプがテノールを貸している。ミュンヘンの宮廷歌手であるイーヴォ・ギュンは、煌めくようなコロラトゥーラ、内面から湧き出る音楽性、優雅さと滑稽味にあふれる演技によって、またしても観客を
魅了した。一方で、より控えめな役柄である恋人役のエルネストには、さすがにボンチのような存在感はなかったものの、ミュンヘンのテノール歌手として、特にセレナーデでは優雅な発声によって聴衆の
心をとらえた。また、経験豊かなこのトリオに並んで、フォルクスオーパーの団員であり、同劇場の頼れるフィガロ役でもあるヴィルヘルム・グートマンが、マラテスタ役としてしっかりとした存在感を見せたのは、見る者にも聴く者にも喜びであった。もっとも、出演者たちにとって強力なライバルがいた。それは、指揮台に立った男――ミュンヘンの元ゼネラル・ムジークディレクター、ブルーノ・ワルターその人だった。
彼の登場には、拍手喝采が巻き起こり、まるで何かのデモンストレーションのような様相を帯びていた。そして各幕の終わりには、拍手はおさまらず、彼もまた舞台上でソリストたちと並んで姿を
見せるまで続いた。ワルターが、たとえ初めて指揮するオーケストラであっても、自らの意図を身体を通じて伝えることができ、その指揮がどれほど説得力を持つかを観察するのは、格別の喜びである。
そして彼の登場のたびに、オーケストラの団員たちですら、彼に魅了されて拍手に加わったという事実は、その影響力を何より雄弁に物語っている。

◆1924/6/13(Berliner Tageblatt 1924/6/14)

ドイツ・オペラハウス
客人たちは去り、またやって来る……今やヴァインガルトナーの後任としてブルーノ・ワルターを指揮台に迎えることとなった。複数の夜にわたり、最初の晩は彼が《トリスタン》の指揮者として登場した。
ワルターがいわゆる「ワーグナー指揮者」であるかどうかはさておき、「ワーグナー的であること」は広い意味を持つ言葉である。《ニーベルングの指環》や《リエンツィ》には、彼の演奏にはやや頑強さが欠けるかもしれない。
《マイスタージンガー》には、彼の持ち味である品の良さが多くの適性をもたらす。そして《トリスタン》は、演奏者にとっては非常に個人的な機会である。
第1幕では、(良い意味での)ワルターの神経質な気質が自由に発揮され、個々の場面の繊細な処理にもかかわらず、大きな構成の流れを決して見失うことはなく、音楽的推進力が常に保たれ、キャラクターの
様式に縛られたり、テンポを失ったりすることもなかった。第2幕の冒頭では、明瞭な語りと生き生きとした言葉の表現に重点が置かれ、息をのむような緊張感が生まれていた。そして愛の二重唱では頂点が訪れる。
ワルターの暗示的な指揮によってオーケストラから何が引き出されたことか! 弦楽器はまるで恋に落ちたかのように歌い、歓喜し、溶け合っていた。内的に共鳴する人物が指揮台に座っていると、それだけで
演奏全体が変わるのである。 ワルターは舞台上でも指揮台でも祝福された。カヒア夫人のブランゲーネは、気品ある造形によって際立っていたが、この晩に限って音の不安定さがあまりにも顕著であったのは
残念であった。キルヒホフ氏は、そのトリスタンで知られているが、声の調子が回復しており、特に激しい感情表現を要する場面において、その役柄を見事にこなしていた。ローデ氏の美しいバリトンは、
クルヴェナール役に芸術的な高みを与えていた。この晩の驚きはフリーダ・ライダーであった。彼女のイゾルデは、演技面でも歌唱面でも実に感銘を与える出来栄えだった。彼女の声は、どの音域でも疲れを
一切感じさせず、終始美しく響き、明瞭かつ意味に即したディクション(発音)で歌われた。これまでやや冷たく控えめな印象を与えていたこの歌手は、今回初めてその真価を示したのであり、今後は
彼女に対する評価を改めざるを得ないだろう。

◆1924/12/8(The Times 1924/12/9)

ロンドン交響楽団    輝かしい演奏会
著名なドイツ人指揮者たちの来訪は、ロンドン交響楽団の演奏会のプログラムにブラームスの作品がふんだんに盛り込まれることを保証してくれる。これは概して望ましいことであり、というのもブラームスの音楽を
知り尽くしているとすれば、彼らをおいて他にないからである。だが、昨夜の演奏会でブルーノ・ワルター氏の指揮によってブラームスの交響曲第2番が取り上げられたのは、とりわけ幸運な采配であった。
ワルター氏の明晰な洞察力と強烈なエネルギーは、第1楽章の三音動機を巡る見事な展開からフィナーレの終止へ向かって弦楽器群で築かれた緊張感あふれる推進に至るまで、あらゆる要素に生き生きとした
力を吹き込んだ。もちろんその間にも数々の注目すべき点があったが、演奏全体に宿った構想と実現の生命力こそが、この演奏を格別に優れたものとしていた。演奏会はまずメンデルスゾーンの《夏の夜の夢》序曲で
幕を開けた。この作品では、同じくワルター氏の方法論によって、作曲者が意図した以上に絵画的表現が強調されたようにも思えたが、間違いなく効果的であった。続くモーツァルトの変ホ長調交響曲(K.543)
は、冒頭から最後の一音に至るまで実に魅力的だった。指揮者は、モーツァルトが生み出した優美なアイディアの一つ一つに対して、それにふさわしい分量だけの強調を与え、決して行き過ぎることはなかった。
全体として、快活さに満ちていながらも、軽薄になることは一度もなかった。演奏会の締めくくりは**ベルリオーズの序曲《ローマの謝肉祭》**であり、輝かしい演奏会の名にふさわしいフィナーレを飾った。

◆1925/11/10(Berliner Volkszeitung 1925/11/11)

《アウリスのイフィゲニア》  市立歌劇場におけるグルック救出

「ゲッティンゲンから我々はヘンデル・ルネサンスを経験した」――今、ブルーノ・ワルターはミュンヘンでの活動圏から、このグルックのオペラの“救出”を我々にもたらしてくれた。もし、この依然として見事な効果を
発揮する作品の格調高い上演に、今後さらに他のものが続いたとしても、それは決して悪いことではないだろう。また、学術的な再構築を恐れる必要もない。《アウリスのイフィゲニア》は今日でもなお人々を
惹きつけ、むしろモダンな印象さえ与える。そう、これは大きく、誠実な成功であった。市立歌劇場は、音楽的表現、演出、美術、そして演技において、独自の、特別な成果を示しうることを証明したのである。
それぞれの要素が、最も幸運なかたちで互いに補完しあい、ひとつの大きな流れとなって結びついていた。どこにもぎこちなさはなく、関与したすべての芸術が高貴な調和をもって結びついていた。
より高い、普遍的な意味において、こうした芸術的諸力の結合には、**ヴィンケルマンのしばしば誤解される言葉「高貴な単純さと静かな偉大さ」**を当てはめることができよう。すべてが様式化されていながらも、
そこには生き生きとした息吹が通っており、明確な音楽的構成と舞台美術(装置も演技も)の簡潔な線によって、倫理的かつ芸術的な内容がいっそう純粋なかたちで立ち現れていた。
ブルーノ・ワルターはリヒャルト・ワーグナーの編曲を基礎とした。その指揮のもとで、オーケストラはまったく見事に鳴り響いた。彼の「抑制されたテンポ」への好みは、適切な場所で見事に機能しており、序曲には
すでに威厳と壮麗さが与えられたが、それでいて優美さや力強さが失われることはなかった。もっとも愛らしいイフィゲニアの一人と呼べるのが、国立歌劇場からの客演、デリア・ラインハルトであった。
若々しく、謙虚なその姿は、柔らかく温かみのある声とともに、アキレウスへの愛と娘としての義務の間で引き裂かれる彼女の心を、深く感動的に表現していた。なかでも美しかったのは、母との別れの場面であろう。
母の腕から離れて犠牲の祭壇へと向かうとき、彼女の声はほとんど「浄化された」ように響いた。母親クリュタイムネーストラーを演じたのはマリア・オルツフェスカ。彼女の高度な歌唱技術は、グルック作品においては
もはや当然の前提である。これほどのクリュタイムネーストラーには滅多に出会えないだろう。
エミール・シッパー(アガメムノーン)は、声の精妙さこそ欠けていたが、実直な演技と、第2幕の終わりのモノローグにおける堂々とした様式感、娘を犠牲にしなければならない父親の苦悩を真に感じさせる
表現には、まさに偉大な力があった。カール・マルティン・エーマンの輝かしい声は、アキレウスを英雄として見事に表現していた。時おり「フリオーソ」(激情)が足りないこともあったし、演技ももう少し自由で
あってよかった。観客は彼の「心の怒り」が、もっと動きのなかで燃え上がるのを見たかった。しかし、その輝かしいテノールが、不足を補って余りあるものとなっていた。アントン・バウマンは非常に上品なカリカスを、
デジデ・ザドールは鋭く特徴づけられたアルカスを演じた。舞台装置はミュンヘンの美術家、エミール・ブレートリウス教授のデザインによる。主要な装置は変わらず、暖かい赤のカーテンが場面を囲み、背景が
開くことで、ギリシャの野営地のシルエットや、祭壇、あるいは最後には開けた海が姿を現す。アガメムノーンの天幕にかけられた、王の青ともいえる明るい青布が、第1幕にほのかな不安をもたらし、第2幕では
同様に舞台中央から黄色が浮かび上がる。最終幕は、特に目立った色彩効果はなく、暗い調子で保たれていた。このように、色彩や光と影の演出においても、音楽的な内容が反映されていた。
スタイルの厳格さは、音楽と並行しつつも、ハインツ・ティーツェンによって人間らしく演じられた登場人物の造形によって打ち解かれていた。彼の演出によって、舞台は生き生きと動いていた。
それは、ベルリンにおける最も統一感があり、霊感に満ち、感動的な上演のひとつであり、偉大な、そして願わくば長く続くであろう成功であった。
ブルーノ・ワルターは、第3幕開始前に盛大な拍手で指揮台に迎えられ、終演時にも、出演者とともに何度も舞台に現れた。

◆1927/10/17(Vorwarts 1927/10/21)

「大地の歌」  クルト・ジンガーによるコンサート評
ベルリンの音楽界は地獄であり、同時に楽園でもある。その狭間にあるのは? ― この地上の夏を秘めた慎ましやかな美だ。人生の荒れ狂う賛歌――ディーリアスによる――がかすかに消え入ったかと
思えば、今度は《大地の歌》が私たちの心へと流れ込み、押し寄せてくる。これは、ある熟成した芸術作品と、それを最も円熟した形で解釈したブルーノ・ワルターという存在による奇跡である。
この六つの楽章が、私たちの心の最も奥深くに触れてくる――それはたとえマーラーが喜びや苦悩といったあらゆる感情を込めていたとしても、もはや関係がない。この音楽は、愛し、苦しみ、快楽や死を
希求する私たちすべての人間に向けられている。そこには静かに支配するメランコリー、荒々しい青春の嵐、陶酔した歓喜、救いなき絶望、解放的でありながら自虐的な切望、無邪気な歓喜、
そして胸打つ別れがある。それらすべてが感じられ、マーラーのこの最高にして完結された旋律において形となり、息づいている。それは一人の偉大な人生の断面図であり、そのすべての繊維がむき出しに
され、苦しむことなく引き裂かれているのだ。「ああ、憩いをくれ、私は慰めを求めている!」――そのように私たちは呼びかけられ、また私たち自身もその声を現世に向かって投げ返す。
そこから、ある約束が聞こえてくる。最後の歌において、永遠のヴェールが、一瞬の静けさと痛み忘れの時間の中で開かれる。魂は地上のものではない羽ばたきにのって連れ去られ、天へと運ばれていく
――そして、かの「世界の苦しみ」でさえ、もはや小さなものに思えてくる。この別れは、もはや単なる音楽ではない。それは啓示であり、神秘であり、信仰であり、礼拝である。
それは、孤高の偉大な芸術家が書いたものだ。そして、ワルターがこの彼岸的な感覚を自身の内から再創造し、聴衆のもとへ震えるように伝えたその演奏は――真の成就であった。
彼もまた、その偉大さのゆえに孤高の存在なのだろうか?心の価値を音楽で表現するという行為にこれほど震えるように迫れる音楽家は、自らの内に悲劇を知る者だけだ。
ウルルスは、ワルターにとって完璧な助演者であった。オネーギン夫人は、外面的な声の輝きよりも内なる情熱をたたえた真の表現者へと、ゆっくりと、しかし着実に成長している。
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団もまた、まるで「よろこんで」とでも言うかのように、ワルターの指揮に応えた。そして、この不滅の歌を見事に奏できった。

◆1928/3/26(Berliner Tageblatt 1928/3/30)

ベルリンの音楽  ブルーノ・ワルターによるシューベルト記念演奏会
これはまさに文字通りの「祝祭」であった。ワルターはベルリン・フィルとともに、シューベルトの《未完成交響曲》の2楽章とハ長調交響曲(第9番)を、実に音色への感覚豊かに演奏した。
フォルテの中に見出される微妙な陰影、色彩豊かな光と半光のきらめき、そして大胆かつしなやかなテンポの扱いによって、個々の細部に対する批評などあまり意味をなさないように思われた。
たとえば、大交響曲のスケルツォにおける弦楽器の第2回ユニゾンのあとに置かれた小さな、いささか「首尾一貫しない」休符や、あの「天上的な長さ」をいくらか耐えやすくするために、ワルターも
また施していた例の「飛ばし」(短縮)の処置なども、批判する気にはなれない(もっとも、それらは本来必要ないものではあるのだが)。それだけに、ワルターが終楽章を手つかずで演奏したのは、
なおさら素晴らしい。第1楽章において展開部の冒頭でテンポを落とし、再現部で再び元のテンポに戻すあの手法は見事である。《未完成交響曲》のレントラー(舞曲風の主題)を、
いかなる「陳腐さ」にも陥らせることなく表現した点もまた見事であった。
エヴァ・リーベンバーグは、名前の出されていない女声合唱団の中で《セレナーデ》のソロを、見事な声量で歌い上げたが、その音楽性が声の素晴らしさに必ずしも匹敵していたとは言いがたい。
なお、シューベルト研究の「最長老」にして最初の本格的な研究者でもあるマックス・フリートレンダー博士は、残念ながら演奏会で予定されていた挨拶を行うことができなかった。

◆1928/10/11(Berliner Tageblatt 1928/10/12)

ライプツィヒ・ゲヴァントハウスにて
ライプツィヒの音楽界にとって、この日はきわめて重要な意義を持つ日であった。なぜなら、たとえブルーノ・ワルターがブッシュ、シュトラウベ、シューリヒト、ブレッヒャー、プフィッツナー、クラウスといった
6人の指揮者たちとともに、20回にわたるゲヴァントハウス演奏会の指揮を分担するとしても、そのうちの半数をワルターが担当することにより、この由緒ある機関に対して決定的な影響を及ぼす
立場にあるからである。この出来事の大きさは、すでに公開総稽古に集まった聴衆にも伝わっていた緊張感からも察せられた。開始の数分前から、聴衆でぎっしりと埋め尽くされたホールは、
期待に満ちた静寂の中に包まれ、新たな指揮者の登場を待ちわびていた。ワルターがこの「デビュー」にあたり、コンサート・レパートリーの中でもとりわけ頻繁に演奏される二つの作品(ワーグナーの
《ファウスト序曲》とベートーヴェンの《英雄交響曲》)を選んだのは、ゲヴァントハウスの伝統への敬意からであると同時に、こうした作品であっても彼自身の個性を証明できるという確信に基づいていたに
違いない。この機会に、前任者に思いを馳せずにはいられない。そして自然と比較も生まれる。フルトヴェングラーとワルターの間には、「峻厳さと柔和さ」「大きな構築への志向と細部への愛着」「統合と分析」
という対照がある。したがって、ワーグナーの《ファウスト序曲》も、ベートーヴェンの《英雄交響曲》も、新たな光のもとに照らし出された。内省的な苦悩や、英雄的な闘争といったものはあまり強調されず、
むしろ両作品は人間一般の精神の領域へと昇華されたのである。「ファウスト」でもなく「英雄」でもなく、「人間」――ワルターの解釈はこの一言に要約でき、その音楽づくりがいかに魅力的であるかを
物語っていた。音響面でも随所に驚くほど美しい場面が現れた。とりわけピアニッシモへの愛情は非常に心地よい印象を与えた。スケルツォの冒頭は特に記憶に残る。また、楽章の最初と最後ではテンポが
やや軽快すぎて、透明感が失われかねない場面もあった。しかし、白眉はやはり葬送行進曲であった。いかなるパトスにも依存せず、心を打つ簡素さの中に奏でられ、真の崇高さを生み出していた。
この内面的な感動は、その率直さによって一層強まり、ワルターの指揮動作――控えめながらも明確で彫塑的なジェスチャー――によって支えられていた。それは時にグスタフ・マーラーを想起させる
ものでもあった。序曲と交響曲のあいだには、エトガー・ヴォルガントがブラームスのヴァイオリン協奏曲を見事なスタイル感覚で演奏した。彼は外面的な効果を避け、音楽そのものに忠実であった。
ワルターはここでも理想的な伴奏者として、リズムと音色の均衡を見事に保ちつつ、伴奏にあっても主導権を失わなかった。新たに迎えた指揮者と独奏者は、聴衆から心のこもった熱烈な拍手で称えられた。

◆1928/10/15(Berliner Tageblatt 1928/10/19)

ワルターはフィルハーモニー管弦楽団とのシリーズを、グスタフ・マーラーの《交響曲第3番》で開始した。これは半年前にクライバーも演奏した作品であるが、ワルターはこの作品を、極めて品のある方法で、
完全に自らのものとして提示した。そしてこの大作を「演奏会のすべて」とするに十分と見なしたのである。この作品については、かつてすでに論じられた??その文化的・趣味的無節操ぶり、それがあまりにも
巨大的に誇張されているため、もはや真剣に受け止めることができず、意図的でパロディ的にすら感じられることについて。実際、この《ザッキンゲンのポストホルン》のような楽句――今回は本当に
「ザッキンゲンのトランペット」が使われた――を感情表現の真実と見なさざるを得ないこと、またツァラトゥストラの「真夜中の歌」と《子供の不思議な角笛》の詩が結びつけられるという趣味の悪さを、
甘受せざるを得ないこと。だがこの奇怪な二重合唱の編成には、何か悪魔的で、冒涜的で、曖昧なものが漂っている。そして、交響曲の第1楽章全体も、マーラー自身がかつて付した子供じみた
標題的なプログラムとは何の関係もないが、それでもなお、破れた、悲劇的かつ滑稽なマーラーの魂、そしてマーラーの時代の転換点を壮大に映し出している。マーラー自身、この音楽の二重性を
深いところで理解していたに違いない。だが、ワルターはこの交響曲を、その真実性を信じきって、心からの感情をもって指揮する。その信念の強さは見事であり、彼が私たちを音楽の現在に完全に
引き込むことで、私たち自身がこの音楽の正しさを信じるようになる。そこには豊かな感情が満ちているにもかかわらず、決して品位の境界を越えることはない。ここには、人間的な温かさと芸術的高みに
よる、不思議な融合がある。そしてオーケストラ、ロゼッテ・アンダイの深く湧き出るような暗い声、キッテル合唱団の女性合唱、ドーム少年合唱団の少年たちも、この魅惑の中に完全に引き込まれていた。

◆1928/10/27(Berliner Tageblatt 1928/10/29)

新しい『タンホイザー』    市立オペラにて
それは「ドレスデン版」の「タンホイザー」ではない――「パリ版」の「タンホイザー」である。それがついに、長らくドイツで演奏されてこなかったにもかかわらず、われわれのオペラ舞台に登場したのだ。
この「パリ版」は、1861年にパリでの上演を目的としてワーグナー自身が大幅に改訂した作品であり、たしかにヴェーヌスベルクの場面をはじめとする一連の場面において、旧来の演出に比べて
進歩している。そして「パリ版」こそが、純粋なワーグナーの思想に基づいており、古い「ドレスデン版」に比べてはるかに近代的であり、今日の舞台にふさわしいと示すものである。
「パリ版タンホイザー」が普及してこなかったのは、ひとえに当時の不運のせいである。ワーグナーはすでに1845年に「タンホイザー」を書き上げていたが、自作に対しても容赦なく手を入れる姿勢を
取っていた。ワーグナー自身が告白している通り、「タンホイザー」は失敗作である。たとえば、第三幕のヴィーナス再登場の場面は、単なるほのめかしにすぎず、エリーザベトの死(これも純粋に「詩的な」
演出に過ぎない)と共に唐突な幕切れを迎える。第三幕の序奏も、まるでコンサート用作品のようである。このような「中間的な版」に基づいた上演にあたり、ブルーノ・ワルターは折衷的な立場をとり、
後期のフランス版からさらにいくつかの管弦楽的な輝きを追加している。だが、最大の注目点は、歌合戦の場面においてワルターがフォーゲル(注:歌手の名)を重視していることに表れている。
言葉が場面の力強さに追いついていない。弦の伴奏が多用されているが、それを超える強さでドラマを支えているのは、ワルターの演奏である。だが、演出家のエルンスト・レールトは、「パリ版タンホイザー」を、
19世紀ロマン主義オペラではなく、神秘劇として蘇らせようとした。つまり、彼はこれを「悲劇的で心理的な夢幻劇」として演出し、いわばフロイト流に読み替えたのである。物語の始まりからすでに、それが
示されていた。たとえば、序幕において、ヴェーヌスベルクは花に覆われた装飾的な空間としてではなく、現代の享楽的なナイトクラブのように、冷たい石壁に囲まれた洞窟で表現される。そして、ヴィーナスは、
奇妙に無感動な、ほとんど思考する存在として描かれている。ワルターの指揮する音楽が息づく舞台に、レールトの演出はあまりにも無感動で、舞台における動きがほとんど感じられない。その上、観客に背を
向けた演技が多く、動きにも規則性がない。こうした演出は、たとえばフィナーレにおいても、巡礼たちや、ヴィーナスの帰還、タンホイザーの神秘的な昇天などをすべて人工的で非現実的な場面にしてしまっている。
装飾も非常に象徴的で、ヴァルトブルクの背景などは金と赤、白、あらゆる装飾で埋め尽くされており、同じような衣装を着た群衆が整然と並びすぎている。その結果、観客の共感は引き出されない。
演出全体が、まるで壁のように冷たく、ドラマの息吹を感じさせない。そして、終盤でエリーザベトが祈る場面でも、彼女は乙女マリアの足元にひざまずくのではなく、マリアの死体のそばにひざまずくのだ――
まるで彫像ではなく、遺骸に向かって祈るかのようである。全体的に、計算されたナイーブさが、非常に人工的でわざとらしくなってしまっている。すべてを超えて輝くのはブルーノ・ワルターである。
彼は楽譜を深く読み取り、華麗で緊張感ある序曲を指揮し、前奏曲と第一幕の終わりまでを見事にまとめ上げる。感情の起伏と劇的な強さがはっきりと表れており、叙情的な要素と劇的な要素の対比も
素晴らしい。第二幕も同様に強いインパクトを残す。観客の注目は、ワルターの音楽的成果に集まっていた。

◆1929/3/19(Deutsche allgemeine Zeitung 1929/3/22)

偶然にも、ブルーノ・ワルターとオッシップ・ガブリロヴィッチによるモーツァルトの夕べは、ちょうどあの注目の火曜日──ワルターがベルリン市立歌劇場の監査委員会からの辞任表明が議論された日──
に開催された。フィルハーモニーは満員で、数千人の熱狂的な聴衆がブルーノ・ワルターに対して熱烈な拍手喝采を送り、それは彼がベルリンでどれほど敬愛されているか、そして彼が去ることがどれほど
大きな損失と感じられるかをはっきりと示すものだった。観客たちは動揺することなく、会場が暗転してもなお、ワルターへの賛辞は鳴りやまなかった。
この夜の終わりには、めったに演奏されることのない作品──変ホ長調の2台ピアノと管弦楽のための協奏曲(K.365)──が演奏された。この作品は、モーツァルトにおいてよく見られる、
少し離れた場所に咲いている宝石のような名曲であり、探す努力さえすれば見つけられるものだ。ワルターとガブリロヴィッチは2台のピアノを精神的な理想の調和のもとで演奏し、フィルハーモニー
管弦楽団──指揮はワルターがピアノから行った──はきわめて繊細な感受性をもって伴奏を務めた。
その前には、有名な変ホ長調交響曲(第39番)の素晴らしい演奏があり、ブルーノ・ワルターのもとで、浄化された響きの中にあっても、生命力を失うことのない、そしてあらゆる点で古典的完成の印を
持った音楽が鳴り響いた。またこの晩は、「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」のほか、ニ短調のピアノ協奏曲(K.466)も演奏され、オッシップ・ガブリロヴィッチによって、最も洗練されたスタイルと
最大限の熱情で奏でられた。彼もまた、嵐のような拍手で称賛された。

◆1929/4/14(Deutsche allgemeine Zeitung 19294/15)

ブルーノ・ワルターの告別  「フィデリオ」市立歌劇場にて
日曜の夜、ブルーノ・ワルターはベルリン市立歌劇場の指揮台に最後の登壇を果たした。彼はベートーヴェンの《フィデリオ》をもって別れを告げた。この作品は、音楽的にも倫理的にも普遍的な価値を
持ち、永遠に尽きることのない内容で世代を超えて響き続けるものである。ブルーノ・ワルターが最後に市立歌劇場で指揮棒を取ったこの夜──彼の手腕によって数々の極上の上演を体験してきた
この劇場にとっては、極めて意味深い一夜であったはずだ──それにふさわしい市当局の公式な代表があっても良かったはずである。しかし、そうしたことは一切なかった。市長が使用する特等席である
一等前列の中央ロッジはほぼ空席であり、少なくともボース市長の姿はそこになかった。確かに、ワルターと市長との間には大きな緊張関係があるのは周知の事実だが、それでもこの夜に何らかの公式な
関心が示されていれば、人間的にも極めて好印象を残したに違いない。その代わりに、劇場の隅々まで満員となった観客たち──その中にはベルリンの知識人や芸術家の多くが含まれていた──が、
退任する巨匠に対して壮大で、計り知れないほど感動的な送別の祝祭を捧げた。花で飾られた指揮台にブルーノ・ワルターが姿を現すと、オーケストラが立ち上がり、それに続いて観客も自然に立ち上が
り、長く温かい拍手で彼を迎えた。ようやくオペラが始まり、聴衆はブルーノ・ワルターにしか成し得ないような、インスピレーションに満ちた一夜を体験した。それは荘厳で、限りなく美しく、魂に語りかけてくる
ような《フィデリオ》の解釈であった。舞台には、バランスの取れた極めて高水準のアンサンブルが揃い、いわば「ワルター・アンサンブル」とも言える、選りすぐりの声と音楽的個性を持つ歌手たちが集って
いた。ヘレーネ・ヴィルトブルン(レオノーレ役)とカール・エルプ(フロレスタン役)は、それぞれの歌唱の見事さとスタイルの統一感において、互いに張り合うように素晴らしかった。アレクサンダー・キプニスは強靭なバスでロッコを演じ、ロッテ・シェーネは魅力的な歌唱でマルツェリーネを演じた。加えて、マックス・モッツは強烈なバリトンでピツァロ役を演じた。さらに、活き活きとしたヴィルヘルム・ゴンベールが
ヤキーノを、そしてウィルヘルム・グートマンが高貴で内面的な深みをもって大臣役を務めた。
最後の幕の前に、いつものようにブルーノ・ワルターが第3「レオノーレ」序曲を指揮した──確かに、この巨大な作品はこの位置で演奏されると、劇的にも音楽的にも全体の流れを断ち切ってしまうが、
今回の序曲の見事に高められた演奏は、聴衆にとって喜ばしく、正当な理由となって、指揮台の巨匠を改めて熱狂的に称える機会となった。だがその後、オペラが終わってからが、実際には長く、重く、
そして痛切な別れの時間の始まりだった。別れゆく偉大な芸術家に対して、彼がベルリンのオペラ活動の年月を通じて多くの美しく忘れがたいものを与えてくれた人々の、愛と敬意の想いが、繰り返し響い
てきた。観客は彼の名を呼び、叫び、彼に手を振った。彼は上手の壇上に青ざめた面持ちで立っており、その瞬間、感情を抑えるのはどれほど辛かったことだろう。
そして彼は語った。静まり返った劇場で、彼は苦しげに、友人たちと忠実な聴衆に向けて感謝の言葉をいくつか述べた。彼は、自分自身に不誠実になることなく、ここに留まることができなかったことを話し、
心から身を捧げてきた仕事を離れることがどれほど辛いかを語った。彼はまた、彼の偉大な友人であり指導者であったグスタフ・マーラーがウィーンのオペラ座を去らねばならなかった時に語ったあの言葉を
添えてもよかっただろう:「私が夢見ていた、ひとつの完成された全体ではなく、断片を──未完成のまま、人間の運命として残していく。」

◆1931/10/2(Badische Presse 1931/10/27)

ブルーノ・ワルターが国立歌劇場の指揮台に初めて立った。彼は、舞台作品としてはどうにも救いがたいウェーバーの《オベロン》を、模範的なオーケストラによって音楽的に際立たせることに成功した。
現代の我々には、「妖精王オベロン」が高いソプラノで歌われることは、いまひとつしっくりこないが、ロッテ・シェーネの素晴らしい歌唱によって、それも納得せざるを得なかった。
一方、レーツィアを演じたローズ・ポーリーは、不十分さのなかにとどまった。ヘルトの優れた演出は、この最も不幸なオペラ台本の退屈さを巧みに和らげていた。
ラバンによるダンス演出は好ましくなく、彼の活動にはますます懸念を抱かざるを得ない。舞台のダンスというものは、構築された理論や、ハエを捕まえるような動きだけでは成り立たないのだ。

◆1931/10/5(Vorwarts 1931/10/6)

大地の歌 「最初のブルーノ・ワルター演奏会」
5月18日は、グスタフ・マーラーが亡くなってから20年目の日であった。ブルーノ・ワルターは、その死の半年後――1911年の秋に――《大地の歌》の世界初演を指揮した人物である。
そして今日、彼が再び指揮台に立ち、マーラーのこの完璧なる作品を響かせることは、偶然ではなく、早すぎる死を遂げた偉大な友人の追悼として行われているのである。
《大地の歌》は、戦前音楽における最も力強い作品であり、同時に新しい音楽への唯一の橋渡しでもある。ロマン派的表現芸術、線的ポリフォニー、印象主義、表現主義――あらゆる方向性が
ここで出会い、交差し、「一度きりの、まったく比類なき総合(シンセーゼ)」へと強いられている。それはマーラーにとって最も純粋で、最も成熟した作品であるのみならず、ある一つの世代が自らを
表現した稀有な作品の一つである。そこには一つの時代全体の反映があり――疲れ切ったロマン派が終焉に向かう中での諦念、この世の美しさへの名残惜しい別れ、そして秘められた、言葉では
語り得ぬものへの没入――「暗いのは命、そして死」と歌われる世界が広がっている。
ワルターは、この(しばしば歪められて演奏される)作品を、彼にしかできない方法で指揮した。大きな構造と細部の両方が等しく明瞭に浮かび上がり、楽譜は透明に、音の織り成す織物は鮮やかに
なり、すべてのピツィカートやハープの一打までもが明確に聴き取れた。特に木管楽器群の美しさは際立っていた。アルトパートはオネーギン夫人が歌い、比類ない出来栄えであった。
その透明な発音の純度、声の輝き、そしてあらゆる要求に応える技術的完成度が、心からの感情と結びつき、見事な演奏となった。それに比べると、困難を極めるテノール・パートを歌った
マーティン・エーマンの出来は明らかに一段劣っていた。《大地の歌》に先立っては、ブラームスのアルト・ラプソディが演奏された。この演奏でも、オネーギン夫人は繊細で微妙な音色の変化を
美しく調整し、見事な歌唱を披露した。

◆1932/12/1(Stuttgarter neues Tagblatt 1932/12/8)

ブルックナーの「第九交響曲」原典版による演奏
ライプツィヒからの報告によれば、ブルックナーの第九交響曲が原典手稿譜に基づいてライプツィヒ・ゲヴァントハウスでドイツ初演されたことにより、フェルディナント・レーヴェがこれまで常に
演奏されてきた版で、単に技術的な実行を容易にしただけでなく、しばしば作曲の性格そのものにも手を加えていたことが明らかになった。
多くの変更は、流れの滑らかさや響きの柔らかさを高める方向でなされていた。そのため、原典版の印象は(特にスケルツォにおいて顕著に)より「深く、より“ブルックナー的」であった。
これはもちろん、ブルーノ・ワルターの、通常とは異なる広く重厚なテンポ設定によるところも大きかった。

◆1937/6/25(The Musical Times Vol. 78, No. 1133 (Jul.1937))

ブルックナーの交響曲第8番
ブルーノ・ワルターは、6月25日夜と26日午後にクイーンズ・ホールでウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮した。最初のプログラムは、シュナーベルの演奏による「皇帝」協奏曲と、ブルックナーの
交響曲第8番であった。協奏曲を聴きに来た人々は、演奏が始まって間もなく、「何かがおかしいのでは」と感じたに違いない。ピアニストは、次々と指の技巧を披露していたが、それと同時に、まるで協奏曲を
聴衆に投げつけているかのようであり、しかもそのやり方は伴奏者にとって非常に合わせづらいものであった。指揮者は、音楽的解釈を構築するどころか、演奏の調整役として手一杯で、オーケストラは
不快そうな――いや、実際に不快であった――響きを出していた。さらに、いくつかの楽器はピアノと音程が合っていなかった。これは記憶に残る演奏だった――という意味では確かに。しかし、独奏者と協奏曲は、
演奏が始まる前にすでに目的を果たしていた。すなわち、満員の聴衆をブルックナーの交響曲の前に導いたのである。そしてこの作品にどのような意見を持とうとも、ウィーン・フィルがそれを我々にもたらしてくれた
ことには意義がある。ブルックナーの交響曲第8番は、1929年、クルトー=サージェント・コンサートでオットー・クレンペラーがロンドン・デビューの際に指揮した作品でもある。
当時はイギリスにおけるブルックナー再評価運動がまだ始まったばかりであり、その演奏はこの運動にとって大きな障害となった可能性が高い。そして、今回のウィーン・フィルの演奏もまた、この運動にとって
後退となった可能性がある。まだ第4番や第7番の交響曲を聴いたことがない人々は、この冗長で質の劣る第8番を通じて、それらを聴いてみようとは思わないだろう。
熟練のブルックナー信奉者が目をつむろうと努力するような欠点が、この演奏では70分間にわたりさらけ出され、それを補うような魅力は、他のより親しまれた作品に比べてはるかに乏しい。まとまりのなさ、
思考の緩さ、テーマを拾い上げては放り出すような構成は、グノーがある作曲家の無能について言ったように「教義にまで高められている」。スケルツォでさえ、この全体的な虚弱さの影響を受けている。
緩徐楽章は、偉大で高貴な思想の影の行列のようだが、それらの思想は真に生まれ出るには至っていない。第1楽章と終楽章は、ブルックナー特有の方法で、作曲というよりは素材の積み重ねに過ぎない。
それでも交響曲のすべてのページには、ブルックナーの音楽でしか感じられないような感情のエッセンスが含まれており、それを信仰する人々にとってはそれだけで満足できるものである。しかし、この第8番においては、
そのような“信仰心”にほぼ全面的に頼らねばならず、より開かれた耳を持つ聴き手にとっては、そこに現れる主題の数々が、第4番の第1楽章や第7番の前半2楽章にある主題と比べて、力強さにも生命力にも
欠けているように聞こえる。
6月26日(土)午後のプログラムには、ハイドンの交響曲ニ長調第86番、R.シュトラウスの《ドン・ファン》、ブラームスの交響曲第4番、そしてエリーザベト・シューマンが歌う歌曲が含まれていた。

◆1937/11/23(Die-Tat 1937/11/26)

トーンハレ協会の特別コンサート
トーンハレ協会の特別コンサートで、ブルーノ・ワルターは11月23日にモーツァルトのト短調交響曲K.550およびアントン・ブルックナーのホ長調交響曲第7番を指揮しました。ワルターによる
モーツァルトの交響曲が素晴らしい演奏で聴けることは当然のこととして期待されており、実際にほとんど不満のない演奏でした。なぜ第1楽章の展開部の繰り返しを省略したのかは理解できませんでした。
この展開部は100小節ほどと非常に短く、むしろこの場合、繰り返しを行うことが理にかなっていると思われます。特に感動的で神聖な静けさが漂っていたのは、素晴らしい「アンダンテ」の部分でした。
また、ワルターがメヌエットの後半をどれほど繊細に終結させ、またそこからどれほど見事に三部の陽気なト長調へと導いたかに注目すべきです。
ブルックナーの第7交響曲は、指揮者に全く異なる課題を課しました。ここでは、聴衆に対してその壮大な交響曲の構造を明確に示す必要がありました。ワルターの演奏は、この交響曲の豊かな
旋律におけるオーストリア的な音楽性をうまく強調し、その結果、形式の巨大な次元が、旋律の豊かさに包まれて、あまり意識されることがありませんでした。今夜のクライマックスは、間違いなくその
壮大な嬰ハ短調のアダージョであり、ブルックナーがご存知の通り、リヒャルト・ワーグナーの死を予感して作曲し、その訃報を受けて完成させた作品です。ここでもワルターは優れた表現力で、
この楽章の神聖で威厳ある大きさを特に印象深く伝えることに成功しました。
感謝の意を込めて、聴衆はゲスト指揮者とトーンハレ管弦楽団に熱烈な拍手を送りました。

◆1938/12/19・20(Der Bund 1938/12/21)

この呼びかけに応じて、月曜日と火曜日には多くの聴衆が詰めかけた。なぜなら、ベートーヴェンやモーツァルト、そして最終的にはリヒャルト・シュトラウスの作品が、この指揮の名匠と、彼によって
変貌を遂げたオーケストラを通じてもたらす贈り物は、聴衆を炎のような熱狂と完全なる感動へと導くにふさわしいものであったからである。両日ともにカジノホールは、最後の空席までもが埋め尽くされた。
 ブルーノ・ワルターの比類なきモーツァルト解釈は、冒頭のト短調交響曲(K.550)において体験された。第1楽章の主題の開始からは、抑制された痛みが感じられた。嘆くようでもあり、刺すようでも
ある冒頭の動機から、モーツァルトは展開の中で決して離れようとせず、その上に、透明で水晶のように明晰な響きとともに抑えられた情熱が全体に広がっていた。細部の一つひとつが新たな光の中に
照らし出され(たとえば第2主題の跳ねるようなアクセント)、そしてワルターは、展開部の驚くべき密度から再現部へと、比類ない導入のエピローグへと導いてみせた。とりわけ彼の指揮における「つなぎ」
の芸術は、まさに直感によって生まれるものだった。特筆すべきは、メヌエットの鋭く切り裂くようなポリフォニー――これはザルツブルクの巨匠が自らの魂から書き出した、最も険しい音楽の一つであろう――
から、トリオの穏やかな変容へと導く移行部である。これは火曜日の演奏でのみ実現されたが、非常に短く伸ばされたティンパニの打撃によって可能となり、その緊張に満ちた「空白」が、語られなかったことを多く語っていた。フィナーレは、まさに弓から放たれた鋭い矢のように、駆け巡る旋律が印象的にオーケストラを駆け巡った。細部までは及ばなかったにせよ、その迫力は十二分であった。
 シュトラウスの《ドン・ファン》においては、感情の大きな転換が必要であった。この交響詩――驚くべきことに作曲者24歳の作品――の猛烈なオーケストラの炎は、ワルターの手によって燃え上がる炎の
ように燃焼された。大胆なドン・ファンの主題の攻勢、オーボエのカンティレーナやソロ・ヴァイオリンの見事な甘美さ、勝ち誇るホルンの歓声、そして不消化な英雄の終焉を描くように焼き尽くされたコーダまで。
オーケストラが、指揮者の雷鳴のような情熱に呼応したさまは、まさに見事な達成であった。
《英雄交響曲(英雄交響曲――ある偉大な人の思い出を祝して作曲された」)》――(よく知られている通り、ナポレオンを指す)において、交響曲の歴史、いや音楽史全体の中でも新たな一頁が
開かれる。この英雄的叙事詩によって、昨日の演奏会では再び聴衆はまったく新たな次元に引き上げられた。作品全体や各楽章に対する、ある程度プログラム的な説明や解釈の試みは数多く存在する。
それも一理あるかもしれない。というのも、ベートーヴェン自身がそれをある程度許容しているからである。しかしながら、最も適切なのは、この音楽の中に宿る驚異的な緊張感と対比、心を揺さぶる倫理的な
力を、ただ音楽自体から感じ取ることだろう。というのも、かつてこれほどまでの思考の多様性と豊かさを、ベートーヴェンが他のいかなる交響作品でもその手中に抑え込もうとしたことはなかったからだ。
さらにこの作品に内在する古典的な要素として挙げられるのは、精神的内容と、比類ない音の美しさとの間にある見事な均衡である。ここでブルーノ・ワルターが介入する。彼は両者に等しく目を配る。
変ホ長調の響きから力強く、しかも温かく導き出されるオーケストラの音色。その基礎には、ティンパニの支配的な打撃がある。そして、各高低点において共に増減しながら呼吸するような目標意識に満ちた
緊張感。こうして全四楽章とその全体的な演奏は、力強さと美しさの両面から、まさにエネルギーに満ちていた。英雄的構造を持つ第1楽章、重苦しい《葬送行進曲》、比類ない構成力を持つ滑稽さに満ちた
第3楽章、そして異常なまでに高められた変奏形式の終楽章に至るまで。オーケストラは献身的に演奏した。弦楽器と木管楽器は、豊かでありながらしなやかに響いた(とりわけ第1オーボエは特筆に
値する)。金管楽器陣も素晴らしかった。鳴りやまぬ呼び出し、指揮者とオーケストラへの歓喜に満ちた感謝の中には、願いが込められていた――ブルーノ・ワルターを名誉ある客演指揮者として、
この特別演奏会の制度が今後も私たちの音楽シーズンの確固たる一部となるように、と。

◆1946/12/5(Die-Tat 1946/12/13)

ブルーノ・ワルターのコンサート
ブルーノ・ワルターは、今年のトーンハレ管弦楽団の年金基金コンサートを指揮しました。このことについて書くこと、慎重に言葉を選ぶことは、彼が私たちに伝えたメッセージの媒介者としてのブルーノ・ワルターを
前にすると、無意味な試みだと思えます。なぜなら、彼はただの偉大な指揮者や音楽家ではなく、高い使命の神父であり、守護者であるからです。彼は創造的な解釈者ではなく、私たちに今まで聴いたことの
ないものを引き出す存在ではなく、すべての虚栄心を超越した芸術の奉仕者であり、その媒介を通して作品の精神が私たちに語りかけてきます。ワルターにとって音楽は、高い倫理的なメッセージであり、
音の世界の神秘から私たちの倫理的な側面に幸福をもたらすものと捉えられています。ブルーノ・ワルターは、純粋な音楽がそれぞれの方法で形而上学的な問題に対する解答を意味することを認識しており、
その中において「偉大な和解の喜びを包み込むことこそが、音楽による真の幸福である」と知っています。私たちの深い調和の渇望、音楽を超えた超越的な意味における調和への欲求は、音楽の進行において肯定され、確認され、慰められます。
ブルーノ・ワルターのように音楽を理解する者は、その音楽的信条が「音楽の道徳的な力について」の演説に記されているように、世界と観客から背を向けて、彼の発散する魔法のような力、意志、精神を通じて、
人々に音楽の純粋な美しさを伝えることができます。そこには何の独創性も、何の圧制もありません。むしろそれは、愛おしみ、求め、誘いかけることであり、その背後には力強い力が隠れています。
彼の視線と左手の表現は、どれほど雄弁であることか!私たちは非常に優れたオーケストラを持っていることを知っており、それを評価しています。そのオーケストラが本当に何ができるのかは、このコンサートで
実感しました。何という音の奇跡!献身と完成度:ワルターはこのような巨大な音楽集団に対して、機敏さと柔軟性の極限を要求しました。特筆すべきことに、ブルーノ・ワルターは再び「クラシックな座席配置」を
要求しました。この配置では、第二ヴァイオリンが前方右側に配置され、これがクラシックおよびロマン派の作品における音響的および構造的な要求により適しているとされています。
ワルターが音楽をどのように理解しているかを、彼は私たちにも伝えました。それは作曲家の「自己」からの本物のメッセージとして。モーツァルトの「ジュピター交響曲」では、その素晴らしい結末のフーガが再現され、
「アンダンテ」は私たちを感動させ、昇華させます。モーツァルトの魂が、この音楽を通して昇華と感動の状態で私たちに届いたように感じられました。ワーグナーの「ジークフリートの牧歌」は、愛のメッセージとして
響き、これもまた、すべての虚偽のパトスや誇張を取り除いた、敏感で軽やかな音楽であり、私たちはかつてのように、良心的に、喜びをもって耳を傾けることができました。しかし、最も完璧だったのは、
グスタフ・マーラーの「交響曲第4番」の完璧な演奏でした。マーラーの「問題」とは、結局、彼の作品がブルックナー以降の最大の交響曲作曲家として無責任に無視され、その結果、コンサート観客の音楽的認識に
おいて、19世紀末のドイツ音楽が一面的に歪められていることにあります。マーラー自身はリヒャルト・シュトラウスとの関係について賢明に言い表し、彼とシュトラウスは「互いに補い合うべき存在ではない」と
書いています。シュトラウスがリヒャルト・ワーグナーの遺産を劇作家として引き継ぎ、モーツァルトに向かう道を模索する一方で、マーラーはロマン派とオーストリア特有の歌の交響曲を統合しました。
彼は、作品のテーマ的な対位法をますます複雑にしていき、その結果として音楽は縦の和声から、徐々に縦横無尽に絡み合う線状の構造へと変わっていきました。
マーラーの「交響曲第4番」は、「角笛交響曲」の最後の作品であり、転換点を示しています。ここでは言葉を音楽的アイデアの媒介者として用いる必要性が最小限に抑えられ、ソプラノ独唱(マリア・シュターダー)
の楽章における、天国的な喜びを歌った歌詞は、十分に理解可能でした。マーラーの音楽には、しばしば過剰に解釈されることがあり、そのプログラム的な指示は感情表現の手がかりに過ぎないことを私たちは
理解すべきです。マーラーは、音楽を心で感じ、明るい想像力と温かい心で聴くことで、私たちに本当に楽しみ、理解する方法を示してくれます。そこに問題はなく、問題を探さなければ、それは単純に美しい音楽です。ブルーノ・ワルターは、私たちにマーラーが伝えたかったことを、明確かつ簡潔に教えてくれました。

◆1950/8/18(Der Bund 1950/8/24)

ルツェルン音楽祭週間  ブルーノ・ワルター・コンサート
ルツェルンのプログラムの中心には、その名にふさわしいコンサートがあった。その「中心」というのは、外面的な位置づけというよりも、今日芸術精神の象徴となっている存在である。この中心の地位は、
彼の見事な芸術的天分の権威によってのみならず、全体的な現れとしての彼の人格によっても支えられている。彼の人格は、古きヨーロッパ的人文主義の豊かさと深みに満ち、音楽における高次の秩序と
明晰さにおいて自身を表現している。この芸術家は、我々の遺産の守護者・継承者として、常にその本質的な内容と形式に則って音楽を表現する。それは、音楽が我々の魂に語りかける本来の使命を
目指しているのだ。ブルーノ・ワルターは、まさにそのような本質的で真の姿を体現しており、その芸術は、彼の手にかかると自然の力のように生き生きと目覚める。彼の音楽においては、精神と自然的な
エネルギーが融合している。つまり、ワルターの音楽は、精神に自然の暖かく開花する生命力を与え、逆に精神が音の豊かさ、美しさ、快さに命を吹き込んでいるのである。
我々が「中庸」と呼ぶこの状態――つまり、形式と魂が一体化し、ロマン主義の夢想がアポロン的な明晰さの中に昇華される状態――ここにこそブルーノ・ワルターの信仰にも似た音楽的倫理が現れるので
ある。彼が指揮した作品の選択も、この精神の現れであった。ベートーヴェン、シューベルト、リヒャルト・シュトラウス、ワーグナーといった作曲家たちは、彼の心の親しい伴侶であり、彼がその世界を深く理解
していた音楽家たちである。
 演奏会の幕開けは、品格あるレオノーレ序曲。全体に高貴な構成で、夜にふさわしい荘厳な喜びが漂っていた。次に演奏されたのは、シューベルトの交響曲「未完成」のチェロ主題。この孤独な旋律は、
精神的な広がりにおいて驚異的であり、作品全体の憂愁や恍惚の眺めの中に立っている。この楽章を聴いて、シューベルト解釈の名手であるブルーノ・ワルターの力量は、まさに疑いようのないものであると
誰もが納得せざるを得なかった。彼の描いた《ドン・ファン》は、表面的な快楽主義者としてではなく、エロスの象徴、創造と変容の力を体現する世界的な英雄像として捉えられていた。幻想力と気品、
情熱と高貴な意志に満ちた描写は見事であり、他の追随を許さない独自性を放っていた。そしてクライマックスとなったのは、《トリスタンとイゾルデ》の「愛と死」の場面。ここにおいてもワルターは、悲劇的な
愛のドラマを一つの完結した形で構築し、イゾルデの告白と死への昇華を、愛の極みとして示したのであった。その優しさと甘さは、古代の愛の歌を想起させるほどであった。
聴衆の称賛は尽きることがなかった。ルツェルン音楽祭におけるこの偉大な音楽家への賛辞に、終わりはなかった。

◆1954/6/17(Der Bund 1954/6/22)

ブルーノ・ワルター、チューリヒにて
6月音楽週間の一環として、ブルーノ・ワルターが再びチューリヒを訪れた。ナチスの暴政により最も過酷な犠牲を強いられた指揮者、すなわち、ベルリンという彼の活動の場から追われ、果ては娘までも
殺されたその人である。今や彼は老年に達しているが、なおも毅然と立ち、彼の熟達した芸の境地には限りがない。
ブルーノ・ワルターが約十年前に自伝を書いたとき、彼はこう始めていた――「遅れて鳴り響くのは、早くに鳴り響いたもの。幸福と不幸が歌となる。」もしかすると無意識に、彼はこの言葉で自身のもっとも
顕著な性格の一端を記したのかもしれない。すなわち、すべての経験が彼にとっては音楽となり、歌となるということ。それ以上に温かく、親密な音楽的表現は他にない。彼の身振りには何の演技もない。
時にそれは極めて単純に見えるが、それゆえにこそ、何よりも動かされるのだ。
ブルーノ・ワルターは、美と真理を見抜く目を持ち、音楽の内なる意味や響きに対してきわめて鋭敏な感覚を有している。その感覚は彼のすべての演奏において、光のように現れる。こうしてブラームスの
《ハイドンの主題による変奏曲》Op.56aにおける「アントニウスのコラール」は、まさに崇高な行進歌のように響き、生命の肯定の象徴となった――存在の暗黒にもかかわらず。
これは、ワルターがこの変奏曲に込められた多くの装飾模様を過度に誇張することなく、根本的な宗教的主題との結びつきを失わせることなく描き出したからである。
モーツァルトの《プラハ交響曲》(K.504)では、指揮者はオーケストラと共に、歓喜し、嘆き、笑い、涙し、まるですべての感情の発露が、極めて繊細な魂から発せられたかのようだった。
ブルックナーの交響曲第9番は、ワルターにとって特に重要な作品であった。彼は、ブルックナーの音楽がこの世における信仰告白であることを知っていた。精神的な領域から来た音楽であり、
ブルックナーが亡くなる直前まで住んでいた聖フローリアンの修道院の魂が宿るものだった。ワルターはこの音楽を生涯、心の最も深いところに携え続けた。
彼の演奏には、ブルックナーの魂に深く触れた者だけが表現できるものがあった。特にフィナーレでは、音楽の波が寄せては返す中、感動のうねりが深まり、やがて海のような広がりへと至った。
そこには、ブルックナーの音楽に内在する「彼方」への想い――すなわち、地平線と天、時と永遠への憧れ――が感じられたのである。

◆1955/6/14(Die-Tat 1955/6/18)

トーンハレ協会の華やかな6月プログラムの内的な頂点を成したのは、6月14日にブルーノ・ワルターの指揮で行われた第2回交響コンサートでした。前日に行われた一般公開のリハーサルと同様に、
コンサートは完売となりました。ワーグナー、モーツァルト、シューベルト、ブラームスによる演奏プログラムは、ドイツ古典音楽を「真の黄金時代」と捉えるワルターの個人的な信条を示すものでした。
私たちは、ワルターが再びグスタフ・マーラーの作品を取り上げてくれることを願っていたかもしれません。ワルターはマーラーと友情だけでなく、人間的誠実さと知的純粋さによっても結ばれていました。
ブルックナー以後、最も偉大な交響作曲家のひとりであるマーラーの創作を、遺産のように再び決定的な形で示す資格を有するのは、他ならぬワルターでしょう。ワルターにとって「音楽の解釈」は自己顕示の
手段ではなく、謙虚な奉仕なのです。それは彼の全ての振る舞いに現れています。彼のジェスチャーは完全に清廉であり、澄み切った精神と温かな心が見事なバランスで共存しています。
誇張的な表現を用いることなく、彼は真に音楽そのものを指揮しています。彼の動きを目で追えば、聴覚による印象がさらに強められるのです。
ワルターは、《パルジファル》前奏曲を荘厳で神秘的に高まり、そして静かに消え入るように演奏しました。彼の手にかかると、モーツァルトの2つのアリアの伴奏が魔法のような音響絵巻となり、マリア・シュターダーは
卓越した技巧と説得力ある表現でこれを歌い、大成功を収めました。
シューベルトのロ短調交響曲(いわゆる「未完成」)は、作品としても演奏としても完璧な輝きを放ちました。ワルターはテンポ感の単調さを避け、第1楽章のアレグロを第2楽章のアンダンテと明確に対比させました。
《有名な》チェロの主題は軽やかに、ほとんど幽玄に演奏されました。そして、彼の解釈の特徴を示す一例として、提示部から展開部へ移る際の《原典版》にある苦い不協和音が、あたかも影や通り過ぎる雲のように
自然に響き、まったく「意図的」ではないように聴こえたことが挙げられます。
ブラームスのハ短調交響曲では、時間感覚のコントロールが一層明瞭に感じられました。そのテンポは常にパトス(激情)に陥ることなく自然に保たれ、冒頭ではむしろ意外な印象を与えるほどでしたが、後には
その正しさが実感されました。というのも、ワルターはテンポを崩さずに力強いクライマックスを築き、各所のスフォルツァートや全奏部分に真の重みを与えたからです(これにより音楽が神経質になることを避けて
います)。彼の指揮は、ある部分では最小限の動きで暗示し、またある部分ではシンコペーションに至るまで精密に打ち出されました。《パルジファル》の前奏曲では柔らかく穏やかな身振り、モーツァルトでは繊細で
正確な拍の取り方、そしてロマン派では時に爆発的な激しさを持って指揮しました。彼は常に音楽の意味に耳を傾けているのです。最後に、いくつかの指揮者やオーケストラ編成で確認された点に触れておきます。
それは、古典派やロマン派(リヒャルト・シュトラウスやマーラーに至るまで)の音楽において、第2ヴァイオリンをステージ右前方に配置することが、疑いようもなく最も適切であるということです。しかし現在の流行は
それに反し、今回のワルターの演奏で、その配置がどれほど音響に豊かさと柔軟さをもたらすかが、明白に示されました。拍手と喝采は止むことを知りませんでした。
来年、80歳を迎えるブルーノ・ワルターが、これからも何度も私たちのもとを訪れてくれることを願ってやみません。