熊本 狩野家

狩野家 初代〜2代

初代 狩野上総助

九州狩野家の初代、諱は種吉。1540年ぐらいに生まれ、1605年ぐらいに65歳ぐらいで死亡。信長(1534生)・秀吉(1537生)・家康(1543生)などと同時代の人物。

永禄12年8月5日(1569)に毛利輝元(1553〜1625)に召し抱えられ、筑前植木庄に50貫地、20人扶持を賜った。その時の感状(戦功を賞して出した文書)、吉川元春小早川隆景井上春忠、山篠就次からの添状は、俊太家本家にずっと伝わっている。なお、筑前植木は、現在の福岡県直方市にあり、JR筑豊本線に筑前植木という駅がある。

その後、秀吉九州平定後の九州国分け(1587)で、筑前は小早川隆景の所領となり毛利家は九州から撤退、毛利家の家臣だった上総助は浪人の身となった。そのころ筑前に居た高橋元種(1571〜1614)は、秀吉との戦いに敗退し日向の縣に改易(1587)となっていたが、上総助は筑前にいた頃の縁があったのか、高橋元種に日向にて召し抱えられ、その子高橋左京(1684没)にも仕えた。

2代 狩野平左衛門

上総助の次男。1565年ぐらいの生まれ、寛永12年9月8日(1635)に、70才ぐらいで病没。

上総助が毛利家に仕官が叶う少し前ぐらいに生まれ、成人してからは、上総助とともに日向で高橋元種、高橋左京に仕えていた。高橋家が奥州に改易(1613)となった際に浪人となり、その後、筑後の田中忠政(1585〜1620)に召し抱えられ、知行700石頂いていた。平左衛門は田中忠政に付いて江戸で勤務していたが、忠政が36歳で亡くなった時(1620)に忠政に嫡子がいなかったため、筑後は改易となり平左衛門はまた浪人となった。

平左衛門の兄狩野是斎(上総助の長男)は日向の高橋元種の下で家老をやっていたが、高橋家改易(1613)以後浪人しており、平左衛門と共に江戸に居た。是斎は柳生宗矩(1571〜1646)に縁故があったため、奉公先の紹介をお願いしていたところ、江戸に来ていた豊前藩主細川忠利(1586〜1641)に推薦してもらうことができ、召し抱えられることになった。是斎は昼夜を問わずそばにいて奉公したところ、細川忠利が豊前に帰るときには、25人扶持と合力米100石を拝領することになった。

そこで、再び柳生宗矩を通して「是斎には平左衛門という弟がいて、高橋家から浪人した後、田中家に奉公していたが、田中忠政が亡くなったのち再び浪人している。男の子も3人いるし何とかなりませんか」と細川忠利にお願いしたところ、「とりあえず、平左衛門と嫡子の仁大衛門は召し抱えよう」ということになり、家老の加賀山主馬に申し付けてくれた。最初は、平左衛門親子は20人扶持だった。その後、次男の小源太も召し抱えられ、扶持と合力米を拝領し、吉田御屋敷御番を仰せつかった。

細川忠利が豊前から肥後へ加増移封(1632)されたとき、細川家重臣の沢村大学助(1560〜1650)にこれまでの仕事ぶりを報告してお願いしたところ、平左衛門も肥後熊本にお供できることになった。寛永10年9月1日(1632)、阿蘇郡に500石の知行を拝領することになり、右馬助役を仰せつかった。また、三男の四兵衛も知行150石を拝領し、八代城(1622年竣工、父細川忠興が隠居していた)付きの役目を仰せつかった。その後も平左衛門は奉公を続けていたが、寛永12年9月8日(1635)に病没した。

以上の話は、創生期・肥後細川藩のページに、もう少しまとめて書いてあります。


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