本家狩野平太郎続柄由緒書
元祖狩野上総助、毛利家に属し、永禄12年毛利輝元より、筑前の国植木の庄内にて、50貫地を給わり、その時の感状今もって相伝居り、元春小早川左右衛門尉隆景よりの添え状、今もって相伝居り候。その後、毛利家領地減少のみぎり浪人仕り、その子狩野平左衛門、細川家へ召し出だされ、忠利主より、寛永10年肥後国阿蘇郡の内において知行高500石を給わり、平左衛門長子狩野仁右衛門10人扶持にてまかり在り、仁右衛門長子狩野九郎大夫、中小姓にて相続、九郎大夫長子狩野才之允、父九郎大夫病死後、浪人仕り、下益城郡名越村へ居住。才之允より狩野壽傳まで3代、浪人にてまかり在り候。壽傳長子狩野俊太、嘉永6年、文武教導行き届き、かつ古き家柄に対せられ、中小姓に召し出だされ、当代狩野平太郎、中小姓相続仕り候。此の段、御達し申し上げ候事。
明治7年7月25日
士族狩野平太郎 家族 第九大邑八小邑下益城郡名越谷村〇〇〇〇〇〇
屋敷別居 狩野儀三太
右の通り相違なく、御〇〇
狩野儀三太 本家 同区同部原町村〇〇〇〇〇〇〇
屋敷居住 士族 狩野平太郎
白川県権令 安岡良亮 殿
「原町村」がどこなのかは不明、現在調査中。
白川県は熊本県のことで、明治5年に熊本県は白川県と名称が変わり、明治6年に白川県は八代県を合併、明治9年に再び熊本県に名称が変更されている。
権令は県令(県知事)のこと。安岡良亮については、Wikipedia安岡良亮を参照。
住所の詳細部分のみ、モザイクにしてあります。