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そもそも九州狩野家が伊豆狩野氏一族の末裔であるかどうかは証拠がなく、はっきりしていない。しかし、そうでないとすると話が始まらないので、ここではそうだということにして話を進めることにする。
まず、伊豆狩野氏の誰かが九州に来た時期についてリストアップしてみた。
1.鎌倉時代前中期、幕府が各地に守護・地頭を派遣、九州には鎮西奉行が設置された時代。
2.鎌倉時代後期、元寇の後、九州に鎮西探題が設置(1293)された時代。
3.室町時代(1336〜)前中期。
4.室町時代後期、狩野城が落城(1491)し、狩野一族が後北条家の傘下に入っていった時代。
いずれも可能性はありうるが、名越家や秋月家との関連から考えると、2の鎮西探題設置の頃が一番考えやすいと思われる。以下、その線でストーリーを考えてみた。
名越谷(熊本県下益城郡砥用町)は、5代狩野才之允が細川藩から浪人したときに移住した先であるが、狩野家として家族ごと受けて入れてもらっているのは、かなり強い縁故があったと考えるべきであろう。
現在も名越谷に住んでいる三浦家には、次のように伝えられているらしい。
「九州に渡ってきた後、しばらくは甘木市付近に住んでいた。しかし、そこに居られなくなる事情が発生し、名越氏をたよりにして名越谷に移住した」
これには、名越谷の方言が甘木市付近に似ている例が多数あるという傍証も存在する。また、名越谷には関東塚・鎌倉・姫椿など鎌倉時代を思わせる地名も多く、名越氏は鎌倉時代またはその直後からそこに住んでいたことを思わせる。
元寇の後、九州防衛のために鎮西探題が設置(1293)されたとき、最初に名越時家と北条兼時が派遣されている。名越時家は2年で鎌倉に帰ってしまっているが、他の名越氏一族とともに家臣団として三浦氏(三浦半島付近)や狩野氏(伊豆半島付近)の武士が付いてきても不思議はない。
その後、鎮西探題は名越家以外の北条氏が派遣されており、やや鎮西探題と離れていたのであろう。ただ、そのためか、鎮西探題が滅亡(1333)した時には自刃を免れたのかもしれない。
九州狩野家(俊太家)が住んでいたのは名越谷、伊豆狩野氏の最後の城主狩野道一が北条早雲に攻められ、自害したのは名越の国清寺。鎌倉幕府で執権を務めていた北条氏のうちの名越家は、その本拠地が鎌倉の名越にあった。「名越」という言葉が重なっているのが気になるので、調べてみた。
まず、狩野城を攻めて開城させ狩野道一を自刃に追い込んだ北条早雲は、伊勢新九郎という名前で、その子孫が北条姓を名乗っただけで、鎌倉幕府の執権を務めた北条氏の子孫ではない。参考:狩野城
狩野道一が自刃した名越の国清寺は、北条早雲が本拠地にしていた伊豆韮山城の近くにある韮山の国清寺であるが、地図では名越という地名は見つからない。ただ、太平記には「上杉憲実は、伊豆国名越の国清寺で出家して隠れていた」など、他にも韮山の国清寺を「名越の国清寺」という記載はあるし、韮山小学校HP
にも名越舎というのが出てくるので、何らかの古い地名と思われる。読みは不明。近くに奈古谷「なごや」という地名があり、関係があるかもしれない。
執権北条家はいくつかの家に分かれているが、本流の名越家「なごえけ」は鎌倉の名越「なごえ」を本拠地にしていた。子孫は代々北陸・九州の守護を務めていたという記載もある。Wikipedia 北条氏名越流
その名越は、そのあたりの坂及び切通しが難所で、「難越」(なこし)と呼ばれたことに由来すると言われており、文献上、『吾妻鏡』中に「名越坂」の記述が見える。Wikipedia 名越の地名
熊本の名越谷の読みは「なごしだに」、名越氏は「なごえし」、鎌倉の地名の名越も「なごえ」と、ちょっと違っている。また、この地名は、大阪府貝塚市に名越「なごせ」、愛媛県東温市に名越城、愛知県新城市に名越「なこえ」、滋賀県長浜市に名越町「なごしちょう」、京都府八幡市に下奈良名越「しもならなごし」などあちこちにある。
結局、勉強不足で疑問が深まるばかりだが、単に「難越」ということだけかもしれない。
ただ、伊豆狩野家は北条早雲に滅ぼされたといっても、一族の残りは北条家(後北条家)の支配下に入って行ったわけだし、執権北条氏の名越氏は関係ないとしても、地名の鎌倉の名越を含め、関連性が無いとは言い切れないと思われる。
「田川の豪族で秋月氏の旗下。天文永禄の頃」(姓氏家系大辞典)(天文:1532〜55、永禄:1558~70)
「観音寺城は戦国時代の山城で、秋月種実の旗下である狩野宗印が築城」(豊前国戦国辞典)
「香月氏輔は、上野観音寺城を秋月から派遣された狩野宗印に譲り、自らは館屋敷柵に移った。」(豊前国古城記)
このくらいしか資料は無いが、豊前国田川郡(福岡県田川市付近)に勢力を持った小豪族で、秋月氏と強い関係を持ち、1500年代半ば〜やや後半に観音寺城という山城を本拠地としていたらしい。
狩野上総助が毛利家の家臣となり(1569)おそらく知行安堵してもらった筑前植木庄は、筑前国鞍手郡であるが田川郡の観音寺城の位置からは7〜8qしか離れていない。
後に狩野上総助や平左衛門が家臣となる高橋元種(秋月種実の次男)は、しばらく田川郡にある香春岳城を本拠地としており、 秀吉が九州平定(1587)した際に日向国縣に改易となっている。香春岳城と観音寺城も、相互に数kmしか離れていない。
状況から見ると、初代狩野上総助は狩野宗印と何らかの関係があるような気がしてならない。
また、「豊臣秀吉の九州征伐(1587)により豊前は小早川隆景に与えられ、香月孝清は本領(畑城)を逐われて植木に蟄居した。ここに畑城主香月氏は消滅した」という文献もある。筑豊香月と筑前植木は4〜5qしか離れておらず、狩野宗印と香月氏との関係だけでなく、筑前植木を介した香月氏と狩野上総助との関係も感じることができる。