伊豆狩野氏は、藤原鎌足から数えて10代目の子孫、藤原為憲を祖としている。藤原為憲は、平将門の乱(940)の平定に功績をあげ、駿河守に着任、工藤姓を名乗った。その孫の維景は駿河守を退任(1050年頃)して、狩野郷(修善寺〜湯ヶ島付近)に移り住み、狩野姓(初代)を名乗るようになる。1100年頃には2代維職・3代維次によって狩野城が建造され、伊豆半島を中心に勢力をふるった。5代茂光は、保元の乱(1156)において源義朝に味方し、以後、狩野氏は源氏に重用され、鎌倉室町時代を通じて伊豆の盟主として栄えてゆく。しかし、時は流れて戦国時代、駿河に居た北条早雲が伊豆に侵攻し、狩野氏の軍勢は破れ狩野城は開城(1491)。最終的に狩野道一が、北条早雲の指示により名越の国清寺で自害し(1498)、狩野家は滅亡した。
ただ、北条早雲は狩野道一を切腹させたが、狩野一族を皆殺しにしたわけではなく、一族の多くは自分の配下としていった。天文3年(1534)には、狩野左衛門尉という人が北条家(北条早雲の子孫、Wikipedia後北条氏)に仕え、鎌倉の鶴岡八幡宮の「鶴岡惣奉行衆」という大きな役職に就いている。天文19年(1550)頃までには一族郎党全員が皆小田原城下に移住し、その後、狩野家は北条氏を支える重要な一派となり、1559年に編集された「小田原衆所領役帳」には、多くの狩野氏一族の名前が記載されている。(小田原衆所領役帳の画像は、下に表示)北条家家臣団HPによれば、北条家家臣団の中でも、狩野家は評定衆として上層部にいることがわかる。
このほか、1582年には北条氏の北関東への進出に伴い、その一族が上野国の津久田城、長井城の城番に抜擢されるなど、しだいに北条氏の中でも重要な役割を担うようになってゆく。しかし、1590年、北条氏が豊臣秀吉との戦いに敗れ降伏すると、狩野家も降伏、戦国武将としての狩野家はここで歴史から消え去っていった。参考:狩野家の人々〜北条早雲より
狩野上総助は、1540年頃の生まれで、1569年に毛利輝元に召し抱えられている。狩野左衛門尉と一緒に小田原に移住した一族の子供ぐらいと考えれば、年代的にも合うのかもしれない。また、上総助という名前も、上総国は千葉県中央部で当時の北条氏の所領範囲内であり、関連がありそうな感じもある。
初代以前・名越谷のページに書いたように、鎮西探題の設置(1293)の際、名越家に付いて狩野家一族の者が九州に行ったとすれば、狩野道一が自害した200年ぐらい前となり、かなり古い時代の話となる。ただ、これについては、文献上の証拠は見付からない。
また、伊豆狩野家が滅亡する少し前に、一族の中から九州へ国司として派遣された者がいるという記録があるらしい。
「昭和57年5月より調査開始、玉東町文化財保護委員 前田重治、狩野照巳記。
九州狩野家は、伊豆の狩野一族滅亡の1代前に九州に国司として派遣され、そこに居ついて豪族化した末裔。この系統は、伊豆の狩野家からの繋がりが確認されている。」
ただしオリジナル文献は不明で、定かではない。こちらは、伊豆の狩野家最後の城主狩野道一が死んだのは明応7年(1498)なので、1代前の誰かが九州に国司として行ったとしたら1400年代中頃、上総助はその2世代ぐらい後に相当するのかもしれないが、はっきりしない。
京都で活躍した狩野派の始祖である狩野正信の父である狩野景信は、駿河今川家の家臣で狩野宗茂の末裔と江戸時代の家譜には書かれているらしい。ただ、信頼のおける資料は他には無く、本当かどうかは定かではないようである。
狩野成信(4代、1604〜1675))などの肥後狩野派は、細川藩の御用絵師として幕末まで続いていたが、こちらは家臣団の九州狩野家とは関係がない。狩野成信はもともと窪田助之進という名前の狩野派絵師で、細川家に仕官が叶いそうだったので京都から熊本に移住してきた。成信は藩絵師にはなれなかったが、その子孫は代々狩野派の絵師として肥後で活躍し、6代師信の時に名字を狩野に変更した。狩野成信は、後世になって名字が狩野になっただけである。
この文献は、著作権の問題が無いため、国会図書館デジタルコレクションに収蔵されています。
巻1〜3の3冊に分かれており、そこから狩野氏一族の名前が出ている部分のみを取り出してみました。ただ、あまり参考になるデータは無さそうです。
巻1-34 狩野大□亮
巻1-35 狩野大□亮の続き
巻2-48 狩野□
巻2-49 狩野□の続き
巻2-50 狩野右近
巻2-51 狩野右近の続き