熊本 狩野家

この文書は、狩野俊太が安政2年2月(1855)に奉行所へ提出した上申書で、このHPの内容のベースになっているものです。画像ファイルもこのページの最後に出してあります。
ただ、読み下し文については、理科系出身の私が古文書解読の本を2〜3冊読んで書いただけのもので、全く自信がありません。不明部分や間違いのご指摘をお待ちしております。(メール:kanocl@sa.starcat.ne.jp)(肥後細川藩拾遺HPの津々堂様からいろいろご指導頂きました。ありがとうございました。)

俊太上申書

読み下し文


一 狩野俊太

一 先祖狩野上総助儀、永禄の頃、毛利家に属し、永禄十二年八月五日元就輝元より、筑前植木庄内にて、五十貫地拝領仕り候。其の時の感状吉川右馬頭元春、小早川右衛門尉隆景より添状、並びに井上又右衛門尉春忠、山縣越前守就次よりの添状、今以て所持仕り候。然る処、毛利家領地御減少のみぎり浪人仕り、日向国城主高橋右近太夫殿へ仕り、同左京進殿まで御奉公仕り候事。

一 狩野平左衛門儀、右上総助二男にて御座候。高橋右近太夫殿、同左京進殿まで御奉公仕り候。然る処、高橋家不慮の儀御座候て、左京進御身体は禿、奥州へ御改易仰せ付けられ候のみぎり、平左衛門儀、浪人仕り居り申し候処、筑後国城主田中筑後守殿より聞こし召し及ばられ、召し抱えらるべく旨にて、召し出だされ御知行七百石拝領仕り、奉公仕り居り申し候処、筑後守殿ご逝去なされ、御跡目無く御座候に付き、平左衛門儀、又々浪人仕り候。然る処、右平左衛門兄、狩野是斉と申す者、高橋家より浪人仕り居り申し候。惣体、柳生但馬守様御懇意の筋目これ有り候に付き、是斉儀は但馬守様御引取なされおき候。妙解院様、江戸御在のみぎり、但馬守様より、御直に

是斉儀お頼みになられ候処、即刻召し抱えられるべく御意遊ばされ、御懇情に仰せ付けられ、昼夜御側に召し仕えられ、御奉公申し上げ候処、豊前御帰着の上、小倉にて二十五人扶持並びに御合力米百石を拝領為され候。然る処、妙解院様、御意遊ばされ、兄弟共に有る由、但馬守様、御物語にて聞し召し上げなされ候由、委敷申し上げるべく旨、御意遊され候に付き、弟平左衛門と申す者、高橋家より浪人仕り候の後、田中家へ御奉公仕り候処、筑後守殿御逝去のみぎり、又々浪人仕り候訳、並びに右平左衛門男子三人の者これ有る儀、つぶさに申し上げ候処、加賀山主馬へ仰せ付けられ、早速、召し抱えられるべく旨仰せ出され、右平左衛門並びに嫡子仁大衛門へ先ず、浪人分に

拝領為さる旨御意遊ばされ、御扶持方二十人扶持拝領なされ候。右平左衛門父子召抱えらる節、弟共は追々召し出ださるべく旨御意遊ばされ候。その後、次男小源太と申す者召し出され、御扶持方御合力米拝領為され、吉田御屋敷御番仰せ付けられ候。平左衛門儀は、心はせ抔度々これ有り由聞き召し上げ為され、沢村大学へ吟味仕るべく旨、仰せ付けられ候に付き、委細の様子つぶさに承届され言上仕り候処、御懇情を添えなされ、御言葉を以て右平左衛門当御国へ御供仕り、御奉公相勤め候内、寛永十年九月朔日、阿蘇郡の内にて、御知行五百石拝領為さる外、御弓二十張を遊ばされる。

御頭永岡右馬助組へ召し加えられ候。その節頂戴なされ候御書、今以て所持仕り居り申し候。その後、三男四兵衛儀、猶又召し出だされ、御知行百五十石を拝領為され、八代御城付き仰せ付けられ候。平左衛門儀、懈怠無く御役儀相勤め居り申し候処、寛永十二年九月八日病死仕り事。
一 狩野仁右衛門儀、右平左衛門嫡子にて御座候。如何様の訳にてか、跡式相続仰せ付けられず、あるいは承傳申さず候。矢張り、豊前以来下されおき候御扶持方迄にて、当御国へ御共仕りご奉公申し上げ、種々の御役儀御奉公相勤め申し候。然る処、年罷りより歩行叶い難く仕合に御座候に付き、組頭

平野三郎兵衛をもって御老中まで御願い申し上げ候わば、嫡子九郎太夫へ私当前の御奉公仰せ付けられ下され候はば、有難き存じ奉るべく旨申し上げ候処、願いの通り隠居仰せ付けられ候。寛文五年十一月十七日、七十五歳にて病死仕り候。
尤も仁右衛門儀、豊前以来の御奉公仕り候儀且つ筋目等の儀は、寛文五年、御奉公御役のみぎり、御奉公帳に委細書付け差し上げおき候事。
一 高祖父狩野九郎太夫儀、右仁右衛門嫡子にて御座候。住江求馬取次を以て、寛文元年八月二十八日、御目見仰せ付けられ、同六年二月晦日、御中小姓に召し出され、親仁右衛門へ下されおき候十人扶持の御扶持方、

相違無く拝領為され候。山本三郎右衛門組へ召し加えられ候。同十二年十月二十七日御郡廻御横目仰せ付けられ、同十一月十九日御郡へ罷り出で、同十二月五日より相勤め申し候。延宝三年八月二十八日、御花畑御掃除奉行仰せ付けられ、同九月二十二日より相勤め申し候。同三年十一月十八日御腰物拵方御横目定役仰せ付けられ、元禄元年九月二十四日まで十四年相勤め申し候処、御役儀御免遊ばされ、同十一月朔日病死仕り候事。
一 曽祖父狩野才之允儀、九郎太夫嫡子にて御座候。前の組頭平野三郎兵衛を以て、御目見願い奉り候処、延宝五年十一月晦日、岩間佐五左衛門

取次を以て、御目見仰せ付けられ候。右親九郎太夫病死仕り候後、浪人仕り、下益城砥用名越谷村へ、居住仕り申し候。元文二年三月病死仕り候事。
一 祖父狩野幸右衛門儀、右才之允婿養子にて、実は金津左次兵衛甥にて御座候。後、才之允と改名仕り候。名越谷村に居住仕り居り、明和三年九月病死仕り候。
一 親狩野壽傳儀、祖父戈之允嫡子にて御座候。名越谷村へ居住仕り、寛政六年五月二十七日病死仕り候。

一 狩野俊助儀、安政二年二月、文武芸心懸け能く、数々の相伝相済み、在中にて大勢の門人御弟子〇〇、不〇一〇〇為合に相儀、一体人〇方〇〇家内も睦○○○の様子、御家旧家筋傍らより対せられ、四人扶持に下され置き、御留守居御中小姓召し出だされ、万延元年十月御奉行所上御番当分仰せ付けらる。文久元年四月、御奉行所上御番定役仰せ付けられ、一人扶持の御足下され置き候。慶応三年十月、御奉行所上御番定役仰せ付けられ候処、座席御奉行所觸御中小姓打廻之席仰せ付けられ、御奉行觸召加えられ候。明治元年十二月

後下の旨御奉行所へ相達し、同三年正月老衰に付き、願いの通り奉行所上番御免遊ばされ、留守中小姓に召し加えられ、同年七月俊太と改名。

画像データ

全部で10枚あります。
ダウンロードしたい方は、こちらから ⇒ 俊太上申書.docx