熊本 狩野家

狩野家 3代〜5代

3代 狩野仁右衛門

平左衛門の長男、諱は種次。寛文5年11月17日(1665)没、享年75歳。1591年生まれ。
仁右衛門は平左衛門の嫡子であったが、なぜか平左衛門の家督承伝を仰せ付けられず、豊前以来の10人扶持だけを頂いて、肥後熊本で奉公を続けていた。いろいろな役目を仰せつかってきたが、年々歩くことが難しくなり、組頭平野三郎兵衛を通して御老中にお願いしたところ、嫡子の九郎大夫が自分と同じ役職で奉公できることになり、願い通り隠居することができた。寛文5年11月17日(1665)に、75歳で病死した。仁右衛門は、豊前からずっと細川家に奉公しており、寛文5年(1665)にそれまでの奉公や役職の詳細を書きつけて、藩の方に提出している。

4代 狩野九郎太夫

仁右衛門の長男、諱は種栄。元禄元年11月1日(1688)没。1635年頃の生まれか。
寛文元年8月28日(1661)御目見、寛文6年2月28日(1666)中小姓となり、父親仁右衛門の10人扶持を相続、山本三郎大衛門組への配属となった。寛文12年10月27日(1672)から御郡廻御横目、延宝3年9月23日(1675)から御花畑掃除奉行、延宝3年11月18日(1675)から御腰物拵方を仰せつかり、元禄元年9月22日(1688)まで14年間務めていた。元禄元年9月30日(1688)病気のため辞職、約1か月後の11月1日に死去している。

5代 狩野才之允

九郎太夫の長男、元文2年3月(1737)没。1660年頃の生まれか。
当初、組頭平野三郎兵衛の配下として御目見、延宝5年11月晦日(1677)より岩間祐小左衛門元次の配下として御目見仰せ付けられる。父親の九郎太夫が病死(1688)した後は浪人となり、下益城郡砥用村名越谷へ転居した。元文2年3月(1737)病死。


<俊太家本家について>

この後、名越谷狩野家の本家は、才之允の長女が婿養子をもらい、家督相続をしている。これは、才之允の長男幸左衛門がかなり歳をとってから(おそらく50歳代前半)の子供で、才之允が家督相続を考えた時点で、まだあまりにも小さかったためである。

その後の俊太家本家は、

・狩野幸右衛門
才之允の婿養子、実は金津友之助の甥。後に、親の名前と同じ才之允に改名した。
ずっと名越谷に居住し、明和3年(1766)に病没。

・狩野壽傳
幸右衛門の嫡子、諱は種信。ずっと名越谷に居住し、寛政6年5月27日(1794)に病没。

・狩野俊太
壽傳の嫡子、俊助から改名。天明7年4月3日(1787)生まれ〜明治12年8月24日(1879)没、93歳。
号は狩野崇山。子供のころ熊本に出て、時習館(熊本藩校)で学問を修めた。武芸にも達者で、学者・教育者として当時肥後では有名な人物であった。安政2年2月(1855)、このHPのベース内容となる俊太上申書を奉行所へ提出している。詳細は、狩野崇山のページにあります。

・狩野平太郎
俊助の長男。平太郎も漢学者で、俊太に引き続いて後進の指導に当たっていた。
俊助が長命であったため、明治になってから家督を相続しているが、実際には、主に幕末期に活躍していた。こちらも、詳細は狩野崇山のページにあります。


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