熊本 狩野家

狩野家 6代〜9代

6代 狩野幸左衛門

生まれは1710年代前半くらいか。天明4年12月15日(1784)没、享年はおそらく70歳ちょっと。
才之允の長男であるが年齢が進んでからの子供で、家督相続の時点であまりに幼く、分家扱いとなっている。本家は、長女が金津家から幸右衛門を養子に迎えて家督を相続した。
ずっと、名越谷に住んでいた。士族ではあるが分家であり、藩には召し抱えられていない。

幸左衛門の妻も、ほぼ同時期の天明4年8月19日(1784)没、享年69歳(1716年生)。亡くなったのは二人とも天明の大飢饉のときなので、当時は低栄養をきっかけとして疫病(コレラ)が流行しており、亡くなった原因はそれが関係していたのかもしれない。

なお、才之允〜壽傳種信の俊太家本家、幸左衛門以降の分家は、俊太上申書にも浪人と書かれており、藩から俸禄をもらっていたわけでは無い。ただ、名字帯刀を許された郷士(在中御家人)ではあったわけで、推測ではあるが、純粋に帰農したのではなくて、地役人として農村行政にかかわっていたのかもしれない。本家は俊太を時習館(藩校)の居寮生に行かせているし、分家も庄三郎を東京の開成学校(東京大学の前身)に行かせているし、これらは、ある程度の収入と家全体の学識が無ければできないことと思われる。

7代 狩野儀三太

幸左衛門の長男、宝暦7年(1757)生、享和3年11月17日(1803)没、享年47歳
読みは「ぎそうだ」、ずっと名越谷に住んでいた。
 妻:丹公 明和3年(1766)〜天保7年(1836)、享年71歳

8代 狩野勇平

儀三太の長男、天明8年(1788)生、天保10年7月8日(1839)没、享年51歳
ずっと、名越谷に住んでいた。
 妻:ナチ 寛政4年(1792)〜明治6年(1873)、享年81歳
 長男:壽八郎 文化12年生(1815)〜明治23年(1890)
 二男:壽太郎
 三男:徳太郎
 四男:桂次郎 文政2年(1820)〜明治31年(1898) 農業をやっていた。
  長男の保(嘉永4年(1851)生)は獣医だった。
 五男:順吾 医者をやっていた。

9代 狩野壽八郎

勇平の長男、明治23年6月29日(1890)没、享年76歳、(1815年生)
ずっと、名越谷に住んでいた。
 妻:伊喜 文政6年(1821)〜明治30年(1897)、享年77歳
 長男:儀三太 嘉永2年(1849)〜大正8年(1919)、享年71歳
  古文書の「系図並由緒書」「先祖附」を書いた人物。7代儀三太と同名なので注意。
 二男:兵吾 嘉永6年(1852)〜明治40年(1907)、享年56歳
 三男:庄三郎 安政2年(1855)生 ⇒ 名古屋狩野家へ。
 四男:邦彦(国彦) 文久3年(1863)生


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