熊本 狩野家

狩野家 10代〜13代

10代 狩野庄三郎

壽八郎の三男、安政2年8月28日生(1855)、大正13年5月18日(1924)没、70歳。
幼少期は熊本の名越谷に住んでいた(明治維新のとき満13歳)が、明治の初め頃に東京に出て、開成学校(現在の東京大学の前身)を卒業した。卒業後、同郷先輩の安場保和が愛知県知事(明治8〜13年)をやっていた関係で名古屋に住みつき、明治18年に結婚。当初の職業ははっきりしないが、明治22年(1888)に中日新聞の前身「新愛知」が創刊されたときに誘われて社員(社会部記者)となり、その6年後からは、しばらく総編集長をやっていた。長男の要の話では、結構飲むことが好きで、活動的な人だったらしい。

住んでいたところは愛知県の祖父江町居中で、現在そこには古びた旅館が建っているが、詳しいことは分からない。祖父江町(現在は稲沢市祖父江)は妻ゑいの実家(瀬見井家)のあるところで、その関係で住むことになったのではないかと思われる。
庄三郎の墓は、祖父江町南方にある円徳寺にあったが、利雄(庄三郎の孫)の代に、東海市の方に移転した。

11代 狩野要

私の祖父。庄三郎の長男、明治26年〜昭和53年、享年86歳。
祖父江町にて幼少年期を過ごし、東京に出て苦学しながら麻布獣医学校(麻布大学獣医学科の前身)に通っていたが、病気になり帰郷。清州の農事試験場(愛知県農業総合試験場の前身)で養鶏の仕事をやっていたが、再び病気となり退職。病気療養後は警察官になり、水上警察を中心に仕事をしていた。庄三郎と違い、まじめ一本やりの性格だった。警察勤務だったので、南三河(御油・豊橋)〜知多半島〜飛島村など勤務地を転々と移動している。昭和13年に名古屋市南区に居を構え、警察は55歳の定年まで勤めた。定年後は、亡くなるまでそこで不動産業をやっていた。

12代 狩野利雄

私の父。要の長男、大正14年〜令和2年、享年96歳。
生まれは国府町御油、2〜3歳頃は日間賀島。中京商業学校から名古屋薬学専門学校(名古屋市立大学薬学部の前身)に進み、薬剤師として名古屋造船〜石川島重工の診療所で働いていた。英語が趣味で、若い頃からYMCAに通い、造船所に来た海外の船員さんと英語で話をするのを楽しみとしていた。
定年退職後は、自宅のあった瑞穂区弥富通で調剤薬局を始め、83歳(平成20年)までやっていた。

実質的には薬剤師だったのだが、放射線技師の国家資格が出来た時、それまで実務をやっていたということで試験を受けたら合格し、放射線技師の免許を取得。臨床検査技師の国家資格が出来た時、同じような経緯で試験を受けたら合格し、臨床検査技師の免許も取得。薬剤師・放射線技師・臨床検査技師の3つの免許を同時に持っていた。

13代 狩野良雄

私自身。利雄の長男、昭和32年に多治見市で出生。
名古屋大学医学部を卒業後、名城病院の心臓血管外科に勤務、平成4年に博士号(医学)を取得している。(博士論文はこちら)平成7年8月、頸椎ヘルニアのため長時間手術ができなくなり開業医に転身、かのうクリニックを始める。平成26年4月から令和2年3月まで、名古屋市瑞穂区医師会の会長を務めた。


写真

左: 狩野庄三郎 66歳(大正10年) 大島宇吉新愛知新聞社長宅にて
右: 狩野要 32歳(大正14年) 御油警察署勤務時代