私自身は俊太家の末裔で、源内家・庄馬家に関しては直接の資料は持ち合わせておりません。
肥後細川藩拾遺HPの中の新・肥後細川藩侍帳【か】の部を参考にさせて頂いた部分もありますので、そちらもご覧ください。
上総助−是斎−太郎右衛門−源之允−源之允−兵大夫−源内左衛門−太郎左衛門−源内
是斎は、上野助の長男であり、いわば狩野家の本家の本家。狩野家創生期での是斎の活躍は、1〜2代のページ、創生期・肥後細川藩のページを見て下さい。
細川家が肥後熊本に移封(1632)してから7年後の 1639年、狩野是斎は70代前半ぐらいで亡くなる。ただそのとき是斎には後継ぎがいなかったようで、100石の知行と家屋敷は娘の夫の松山次郎太夫に渡すようにと遺言されていた。
松山次郎太夫(このとき50歳前後)は細川藩家臣松山権兵衛の次男で、すでに細川藩家臣として知行150石をもらっており、是斎の跡を直接継いだわけではない。次男でもあり、最初は将来跡を継いでくれないかと是斎に頼まれたのかもしれないが、このとき松山家は、長男猪兵衛が父や次郎太夫よりも先に亡くなっており、次郎太夫が松山家の跡を継がなければいけない立場になっていたと思われる。
ただ、そうこうしているうちに次郎太夫も父より先に亡くなってしまい、結局、松山家は三男の三郎四郎が跡を継ぎ、次郎太夫の子供が狩野家(是斎)の跡を継ぐという形で収まったようである。
つまり、家系図の3代目太郎右衛門は、一世代とんで外孫が跡を継いでいる形である。なお、是斎はもともと太郎右衛門という名前で、途中で是斎に改名したという経緯があり、外孫は祖父の古い名前に改名したということである。また、源之允も4代5代と続いているが、これは5代源之允が養子で、親の名前を受け継いで名乗ったためである。
以後、源内家は、江戸時代を通じて知行100〜200石の中級家臣として、肥後細川藩の中で一定の地位を保っていた。家系図最後の狩野源内は幕末頃の人物で、源内の時代に大政奉還(1868)となり、明治時代が始まっている。
源内の三男狩野直喜は、昭和19年(1944)に文化勲章を受賞した中国文学・中国哲学の学者で、京都学派の創始者のひとりである。字は子温、号に君山・半農人。京都帝国大学の教授を勤めた後、東方文化学院京都研究所初代所長に就任、京都研究所が東方文化研究所として独立するまで務めるなど、日中共同の東方文化事業に深く関与していた。(Wikipedia狩野直喜)
直喜嫡孫の狩野直禎もまた、著明な東洋史学者である。(Wikipedia狩野直禎)
上総助┬
└平左衛門┬
└四兵衛─権三郎─左次右衛門─市右衛門─字平太─吉九郎─涛内─四平太─喜角─庄馬
上総助次男平左衛門の三男四兵衛が庄馬家の祖。平左衛門の長男仁右衛門は俊太家の祖で、次男小源太は豊前時代に細川家家臣になっているが肥後に移ってからは不明。四兵衛は、豊前の時代には無禄であった。
俊太上申書によれば、細川家が肥後熊本に移封(1632)したときに、四兵衛は平左衛門・仁右衛門とともに肥後に移り、平左衛門が亡くなる(1635)前に、150石で細川家に召し抱えられ、八代城付きを仰せ付けられている。そして、四兵衛の嫡子権三郎も八代城付きだった。以後、庄馬まで150〜250石の中級家臣として、幕末までずっと細川家に仕えていた。
ただ気になるのは、 幕末期は上総助から数えて、源内(1820年頃生)が9代目、庄馬が12代目、俊太(1786年生)が8代目とかなり家によって差があることである。源内家は、是斎と外孫の太郎右衛門で一世代飛んでいるが、9代目の源内は8代目太郎左衛門の弟なので、結局プラスマイナスゼロ。俊太家は、俊太が93歳まで生きており、実際には長男の9代目平太郎が源内とほぼ同世代なので、同じくらい。それに対し、庄馬家は12代と、何故か多い。上総助が1540年頃の生まれとすれば、280年で9世代なら、一世代は31歳。しかし、12代では一世代23歳になってしまう。
なお、狩野庄馬は細川藩の藩医で、日本の赤十字活動の発祥に関わっていた。
熊本市内にある拝聖院(熊本市北区室園町12-53)には、「日本の赤十字活動発祥の地」と「細川藩医師団の赤十字活動について」の2つの碑文が立っている。日本赤十字社熊本県支部HPによれば、碑文には「鳩野宗巴は、天保15年(1844年)に熊本城下に生まれ、細川藩御典医として熊本城下で医術を業としていた。西南戦争(1878)のときには、熊本城天守閣炎上の時に鳩野家も全焼、拜聖庵跡に避難していた。そのとき薩摩軍から兵士の治療を強要されると、敵味方の区別無く治療することを条件に引き受け、藩医の・・、狩野庄馬、・・らと8名で早速治療を開始した。」と書かれており、狩野庄馬が出てくる。参考:発祥の地コレクションHP
上総助┬
└平左衛門─仁右衛門─九郎太夫─才之允─幸右衛門─壽傳─俊太─平太郎
平左衛門長男の仁右衛門から、ずっと続いているのが俊太家。途中で幸右衛門だけが娘婿で養子である。源内家・庄馬家は、幕末までずっと中堅家臣として細川藩に仕えていたが、俊太家は途中でいろいろ問題があった。
仁右衛門は平左衛門の長男であったのにもかかわらず、何故か平左衛門500石の跡目は承継できず、もともともらっていた10人扶持のみで、3代目の九郎太夫も10人扶持のままだった。しかも、4代目才之允は九郎太夫が亡くなると家禄が頂けなくなり浪人、名越谷へ転居する。
才之允−幸右衛門−壽傳の3世代は、郷士としてずっと名越谷で暮らしていたが、俊太は若くして熊本に出て藩校の時習館で学び、その後塾を開いて長年にわたり後進の指導を行ったため、それが評価されて再び4人扶持の俸禄を頂き、奉行所に役職を頂いた。このように、俊太の時代に細川家家臣に復帰したのであるが、たかだか4人扶持(後に5人)であり、100〜250石の源内家・庄馬家とは大きな差がある。
時代や地域によって違うようだが、およそ、
知行1石=蔵米1俵
1人扶持=蔵米5俵
ぐらいと言われており、10人扶持といっても、収入は知行50石ぐらいと大差ない。
もちろん、扶持米取りというとどうしても下級武士のイメージだが、格上の知行取りだと家来もたくさん雇わないといけないし、100石取りに比べて10人扶持の収入がものすごく少ないというわけではない。ただ、100石取りは中級家臣としては下の方である。
参考:江戸武士の俸給HP 30石から400石の武士