熊本 狩野家

狩野崇山について

狩野崇山は、江戸後期〜幕末、学者・教育者として肥後では有名な人物だった。崇山は俊太の号で、狩野俊太本人のことであるが、その功績で5代目から浪人となっていた狩野家俊太家を仕籍に復活させた。狩野崇山の話は、分家の分家の末裔である私でも、祖父や父から幾度となく聞かされたもので、狩野家の中でも傑出した存在だったようである。

狩野崇山については、 武藤厳男編著「肥後先哲偉蹟後編」に4ページにわたって書かれており、このページは、そこから抜粋しまとめたもの。原文は、下の方に出してあります。

狩野俊太(崇山)

天明7年4月3日(1787)生まれ。幼名は吉郎、通称は俊助で晩年に俊太と改名。諱は周壽、字は昌父、号は崇山。その少し上の世代は、3〜5代・俊太家本家のページにある。

幼い頃は砥用村名越谷に住んでいたが、子供の頃に熊本に出て、時習館(藩校)居寮生となり学業を修めた。その後、戸嶋村に招待を受け子弟教育を始め、数年後に阿蘇郡高森へ移って子弟教育を続けた。その数年後には下益城郡砥用に戻って養正堂(狩野塾)を開き、長年にわたって後進の指導に精力を費やした。文政13年12月(1830)には、その功績により白銀3枚を拝領した。

時習館で学んだ文学だけでなく、経史詩文にも達者。また 学問だけではなく、学兵書を澤氏、撃剣を速水氏、掌法を河添氏に師事し、いずれも相伝。それらにより、文武両道の教育を進めた。41年間の子弟教育で、門人は全部で620余人。その功績により、安政2年2月28日(1855)、古い家柄であることもあり4人扶持を下され中小姓に召し出だされた(この時すでに69歳)。

安政2年2月28日(1855) 御留守居御中小姓に召し出だされる。4人扶持。
安政3年2月(1856) 新屋敷に居住。御赦免開6反8畝9歩、右御判印書1通を郡方奉行から渡される。
万延元年10月4日(1860) 御奉行所上御番当分を、仰せ付けられる。  
文久元年4月23日(1861) 御奉行所上御番定役を、仰せ付けられ、1人扶持追加となる。
慶応3年10月(1867) 御奉行觸御中小姓打込の席を、仰せ付けられ、御奉行觸に召し加えられる。
明治元年12月(1868) 右御番数年相務め候につき、毎年銭430目渡し下される旨のお達しあり。
明治3年正月(1870) 高齢(84歳)により奉行所上番御免あそばされ、留守中小姓に召し加えられる。
明治3年7月(1870) 俊太に改名
明治12年8月24日(1879) 93歳にて没し、下益城郡砥用村栗崎に葬られる。

俊太は体が強壮で、新屋敷に住み始めてから亡くなるまで、下駄で砥用村まで往復していた。

妻は砥用の山本氏で、2男2女を生んだ。長男は左文太、後に平太郎と改名し号は亀山、跡を継いでいる、次男は文之進、後に安衛と改名、父死後は行方不明。長女は砥用の木村氏に嫁入りし、次女は城野静軒の後妻となった。城野静軒は、幕末に活躍した学者・書道家・武芸家で、当時肥後では有名であった人物。(参考:菊池市観光HP城野静軒

弟がおり、名前は狩野順太。潤蔵─亀喜と続いていった。

長男の平太郎も文武両道で、砥用邸内に塾を開いて青年教育を行い、明治維新後に英国式操練が始まると、それについても若者を集めて教えたとのことである。平太郎は69歳にて中風となり、明治22年に75歳で没した。妻は神戸氏で女を生み、矢橋渡の四男貞治を養子にもらい跡を継がせた。


肥後先哲偉蹟後編

肥後先哲偉蹟は、武藤厳男(1846-1923)が肥後細川藩で活躍した学者について研究した著作物で、正・続編(明治44年7月)と後編(昭和3年)の2冊がある。狩野崇山が載っているのは後編の方で、崇山のことだけでなく、狩野家の歴史も少し書いてある。